今、学生さんのレポートを読んでいます。読みながら、正直気が重くなってしまいます。
多くの学生さんが、「一人一人を見取り、サポートしたい」的なレポートの最後についているのです。呪縛です。
ゼミ生に対しては「一人一人を見取るべきではない。一人一人をサポートするべきではない」と言います。他ゼミの学生さんには理解出来ないだろうから、言わないようにしています。ま、言ってもスルーしてしまいますから。認知心理学によれば、人は自分の頭の枠組みに合わない情報はスルーするものです。
何故、「一人一人を見取るべきではない。一人一人をサポートするべきではない」のでしょうか?第一に、そもそも見とれないからです。だって、愛し合って結婚し、約三十年一緒に生活している家内の気持ちや行動を読み取れないのに、赤の他人、それも年齢が数十年離れている子どもを見とれるわけありません。それも三十人の子どもです。難しい、ではなく、不可能なのです。せいぜい出来るのは過去の自分に基づいて、独り合点で見とれていると思い込んでいるだけです。その結果として、無意味なエネルギーを費やし、ミスリードします。
次にほぼ同様な理由で一人一人をサポートできるわけありません。私が最底辺の高校の教師だったとき、先輩教師からは「子どもを救おうと思うな」と注意されました。理由は一人の人を救うことはとても大変だからです。それをやろうとすれば、本当に守らなければならない家族をないがしろにするからです。たった一人でも大変なのに、三十人の子どもをサポートするなんて、難しい、ではなく、不可能なのです。その結果として、無意味なエネルギーを費やし、ミスリードします。
でも、私はやってしまった。その結果として、ふがいない自分を責め、毎日一升の酒を飲み続けて自己憐憫に陥っていたのです。そして、高校教師からドロップアウトし、大学に逃げ込んだのです。
では、どうしたらいいか?
一人一人は無理だけど、一人一人の子どもが有機的に繋がった集団を見取り、サポートすることは出来ます。一つ一つの水分子の挙動は現代科学でも予測不能ですが、液体の水は予測可能です。だから、幼稚園児だってコップの水を飲めるのです。個々人の挙動は予測不能ですが、有機的に繋がった集団の挙動は予測可能ですし、コントロール出来ます。
つまり、「一人一人を見取り、サポートしたい」ではなく「集団を見取り、サポートしたい」と分かって欲しいのですが、このあたりはゼミでの口伝が一番確実なんですよね。