お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2001-03-05

[]モデル 23:06 モデル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - モデル - 西川純のメモ モデル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもを理解しようとする教育研究を行う際、最も難しいのは「モデル」という考えを理解するこののようです。どんな研究であっても、あるものの真の姿(極めて哲学的であるが)を明らかにはできません。我々ができるのは、あるものを理解するための方便としてのモデルを作るにすぎません。例えば現在天気予報は大型コンピュータ上のシミュレーションによってかなり正確に予測することが可能です。しかし、そのプログラムは多数の研究者トロイ遺跡のように、付け足し、付け足ししたものですから、そのシステム全体を理解している人が皆無という状態です。また、そのシステムが気象の真の姿を表しているわけではなく、1つのモデルを提示しているにすぎません。ただ、そのモデルに従うと天気予報が当たるという点で、有効なモデルなんです。

 気象現象でさえそうならば、人間認識はさらに複雑でしょう。仮に人間認識を気象のようなプログラムで表現すれば、気の遠くなるような膨大なステップ数になるでしょう。さらに、そのプログラムは、プログラムプログラム自体を自己生成するプログラムとなるでしょう。そんなプログラムを我々が理解することは不可能です。さらに、現在人工知能研究者は、我々が一般的に記述しているような概念的・意味的用語によって心は記述できないと考えています。簡単に言えば、我々が使う文字や図によって心を記述することはできないことを意味します。私も究極的には彼らの主張は正しいと考えています。しかし、現実教育問題を解決するに、有効なモデルはあり得ます。本当の心を記述していないとしても、現実を理解する道具として意味あるものです。別に、教育研究に限ったことではありません。例えば、「原子」、「分子」を本当にあるものと信じている方も多いでしょうが、あれもモデルです。本当に、「原子」、「分子」があるかどうかなんて誰にも分かりません。ただ、「原子」、「分子」があると考えると、便利なだけです。第一、「真に」、「本当に」という言葉自体、単純に使えません。

 子どもを観察していると、実に色々なことが見えています。その「見え」は、教師に新たな視点を与えるという意味で、とてもとても大事なものだと思います。しかし、同時に、その「見え」に必ずしも一致しない例外もあります。私の研究室院生さんや学生さんは「純」な方ですから、それが気になって気になってしょうがありません。悩んで悩んで、結局まとめられないと相談にこられる場合もあります。その際、モデルという考え方を話し合います。そして、最後に、「その「見え」を確からしく感じ、心に響くものがありますか?」と聞きます。もし、そうならば、それはとっても良いモデル(見方)の一つだと思います。