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2001-04-04

[]お客様は怖い 22:33 お客様は怖い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - お客様は怖い - 西川純のメモ お客様は怖い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 定時制高校に勤務したときに、色々なことを学びました。その中でも、最も重要なことは、学習者はお客様で、お客様はとても怖いということです。

 自分自身が、児童・生徒だったときは、先生に対する愛着がある一方、恐ろしい存在でもありました。もし逆らったりしたら、「○○される」(自由に想像してください)とビクビクものでした。その経験から、自分が先生になったとき、「○○すること」は教師の天与の権利と思っていました。ところが教師になってみると、自分が児童・生徒の時に恐れていた教師の権利は、実は何もないということに気づきました。仮に、そのような権力を振るった場合、正当なプロセスで法的に訴えられれば、かなり不利です。さらに、訴訟が起こった場合、仮に最終的に司法上は勝ったとしても、訴訟が起こったという段階で、実質的には「負け」となります。私は中学校3年間の出席日数の総計が10日以下の生徒(内申書にはそう書いてありました)を教えたことがあります。そうなると、中学校では、「出席しない生徒を進級させない」ことも出来ないんですね。

 平均的な学校だったら、教師が権威を振りかざせば、児童・生徒の時の私と同様におとなしくなるだとおもいます。ところが、定時制高校の場合、私が権威を振りかざしても、「へ」とも思ってくれません。そうなると、権威を振りかざした手の下ろし所を見つけだせず、極めて滑稽な状態になります(本人にとっては地獄ですが)。高校に勤めた最初の年の1学期の私がそうでした。

 私を含めて、それ以降の経過は以下のようになります。まず、初期症状は職員会や職員室でのお茶飲み場、また、飲み会で、生徒に対する悪口が多くなります。また、自分の正当性を過剰に主張します。本人は、必死なんでしょうけど、有能な教師から見れば「私は無能で~す!私のクラスでは授業が成立してませ~ん!」と大声で宣言しているようなものです。第三者には滑稽の極みです。次の段階では、結局、いくら主張しても無駄で、自分の負けが動かしがたいことが明らかになります。そうなると、「自分は負けていない」と思いこむ自分という殻に閉じこもってしまうタイプ、異常に生徒に卑屈になってしまうタイプがあるようです。

 幸い、私は最終段階に至る前に踏みとどまることが出来ました。これは先輩教師のおかげです。生徒の悪口や、自分の正当性の主張をするようになった段階で、先輩教師が私の状態を察し、やんわりと救ってくれました(つまり、私のプライドを傷つけないように)。

 冷静になって考えれば明らかです。教師の権威は、子ども達が権威があると認めるから存在します。その権威の源泉は、その先生に教えてもらうと面白いし、分かるということだと思います。従って、面白くないし、分からなければ、どうしようもありません。結局、最終段階前にやったことは、権威を振りかざした手をとにかく下ろすことです。方法は、「勝った・負けた」の次元で考えることをやめました。そして、それまでのことは忘れて再出発しました。それからは、一人でも多くの生徒に面白く、分かる授業をするように心がけました。また、生徒に対しては、卑屈にならず、かといって権威を振りかざしません。教えるという役割を、出来るだけ誠実に果たすだけです。そうこうするうちに、クラスの大多数が支持してくれるようになりました。そうなると、クラスの支持というものが教師の権威となりました。そうなると、ことさら権威を振りかざす必要は全然ありません。繰り返しますが、本当に先輩教師の方々には感謝しています。

 今は大学の教師です。が、定時制時代の「あの状態」の恐ろしさを忘れることは出来ません。

[]大学院入院の利点 22:33 大学院入院の利点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大学院入院の利点 - 西川純のメモ 大学院入院の利点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学院にはいると色々なものが学べます。「大学教官」という世にも奇妙な生き物を学ぶこと出来るというのも一つです。

 大学の学部時代は、大学先生は「なにか凄い」人のように私には見えました。ところが、大学院に入学すると別な面が見えてきます。学部時代は、大学先生は「先生」として学生に接します。また、接触時間も限られたものです。ところが、大学院にはいると、「研究仲間」、もしくは「研究の後輩」として学生に接してくれます。また、接触時間も長くなります。その結果として、大学先生普通のオッサン・オバハンであることが分かります。それも、極めて単純で、ある意味子ども的なオッサン・オバハンです。

 また、学部時代は全ての大学先生が、その道の権威のように私には見えました。ところが、自分自身で色々な文献を読んだり、学会に参加したりすると見え始めます。大学の中では、胸をはって歩いている先生が、学会ではそうでもなかったりします。逆に、貧相なオッサンと見えた先生が、実は学会では一目置かれる先生だったりします。また、普段は馬鹿話しかしない先生が、論文では格調高い内容を書かれていることに驚くことがあります。言っていることと、やっていること。学生に見せている姿と、社会における評価のギャップに気づきます。

 しかし、それらの先生方の長所欠点、得意・不得意を知った上で、大学先生とは「かわいい」存在であることに気づきます。

追伸 以上は、私の場合です。今の学生さんは、学部時代に見切っているのかもしれません。(怖い)

[]綿1kgと鉄1kg 22:33 綿1kgと鉄1kg - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 綿1kgと鉄1kg - 西川純のメモ 綿1kgと鉄1kg - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「綿1kgと鉄1kgのどちらが重いか?」という問題を聞いたことがあると思います。持ち上げられるレベルの重さの場合、我々が体感する重さは、質量よりも密度が影響します。そのため、鉄1kgのほうが重く感じます。しかし、「両方とも1kgだから重さは同じ」というのが、この問題の落ちです。しかし、本当でしょうか?そもそも「重い?」と聞いたときに聞いた重さとは、慣性質量でしょうか、重力質量でしょうか?我々が「重い」と日常で用いる重さとは、重量質量です。水の中にものがあるときには、浮力が生じます。その浮力は、体積が大きくなると大きくなる性質があります。実は、空気中にあっても、空気からの浮力が生じます。その場合、密度の小さい(すなわち体積の大きい)1kgの綿の方が大きな浮力を受けます。従って、綿が軽いというのが正確な答えとなります。しかし、鉄は酸化するということを考えるならば、鉄の方が重いというのが答えとなります。

 それでは「綿1kgと鉄1kgのどちらが重いか?」の本当の答えは何なのでしょうか?実は、「綿1kgと鉄1kgのどちらが重いか?」という問題には曖昧部分(例えば「体感的な重さ」、「慣性質量」、「重力質量」のいづれか等)があります。従って、本当の答えなどはないんです。ところが、「重さの重い振り子と軽い振り子の周期はどちらが早いか?」と質問し、「周期は同じである」という物理法則を自信を持って教えてしまいます。しかし、周期が同じになるためには、空気抵抗を無視し、振幅の幅が無限小であることを仮定しなければなりません。実際の状態では「周期は同じではない」が正しい答えだと思います。このような無理な仮定を求めているのは理科のみではありません。例えば、「5つの飴を3人で分けたとき、一人当たりは?」で、5/3という答えを出します。しかし、今までの生涯で、こんな分け方をした方がいます?おそらくは、二人が2個で一人が1個と分けた方が多いのでしょう。

 つまり、学校では「なぞなぞ」を教えているのかもしれません。