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2001-09-17

[]ご降誕 15:08 ご降誕 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ご降誕 - 西川純のメモ ご降誕 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 毎年、この時期になると、「9月14日」は何の日か知っている?という質問を授業の最初にします。答えられないと、「ある偉大な方がお生まれになった日だよ」とヒントを出します。このあたりになると、私という人間がよく分かっている学生さんはニヤニヤします。答えは、私が生まれた日です。

 ところが、今年はこの質問を授業にしませんでした。それどころか、当日になって家内から「おめでとう」という一言をもらうまではすっかり忘れてしまいました。ちょうど息子が風邪をひいた関係で、あたふたしていたためです。当日は、家内手料理(息子の風邪のため時間がなかったと、さかんに謝っていましたが、心のこもったものでした)と、以前、院生のMさんとワインの話をしたとき物欲しそうな顔でいたら恵んでくれたワインありがとう!)でお祝いしました。

 小学校のころから、何度も「21世紀ってどんな時代なんだろう」と想像しました。同時に、そのころ自分は42歳になるが、「42歳ってどんな年齢なんだろう」と想像しました。しかし、21世紀は20世紀の延長上にありました(当たり前です)。鉄腕アトムはいません、でも、色々な便利なものが一般化しました。また、42歳の私は41歳の私の延長上にありますし、18歳の私の延長上にあります(当たり前です)。それなりに変わりましたが(特に、腹の贅肉)、私は私に変わりありません。

 一休禅師は正月を、「門松冥土の道の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と詠みました。しかし、私にとっては、家内と息子と一緒に過ごせた、目出度い一里塚です。

[]お願い 15:08 お願い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - お願い - 西川純のメモ お願い - 西川純のメモ のブックマークコメント

9月12日のメモに書きましたように、「iamjun.com」というドメインを取得しました。それに伴って、ホームページは「www.iamjun.com」になりましたし、メールアドレスは 本ホームページの質問コーナーで紹介しているアドレスになりました。

 旧アドレスに送られたメールは新アドレス転送するように設定しています。従って、旧アドレスを使うことが出来ます。しかし、出来るだけ新アドレスにしてください。第一の理由は、旧アドレス上越教育大学サーバーが管理していますが、そのサーバーは壊滅的に安定性に欠けています。従って、送ったが1,2日(時には1週間)届かないということもおこります。

 第二に、上越教育大学が無くなる可能性があります。そんなバカな、と思われるかもしれませんが、その可能性は低くありません。大学に勤めている方でさえ、あまり危機感があまり無い方が多いぐらいです。ましてや一般の方が知らないのは当然ですが、現在国立大学を巡る状況は激変しています。100年に一度の激変です。数年のうちに、国立大学から独立行政法人移行します。さらに、現在国立大学の半数は統廃合される計画です。従って、上越教育大学の校舎が取り壊されたり、教官がクビになることは無いとは思いますが(無いとは言えませんが)、「上越教育大学」という名前が残るかどうかも分かりません。もしかしたら、「北陸教育大学」なんて出来るかもしれません。そうなれば、現在メールアドレスは使えなくなります。

 ちなみに、私からのメールは新アドレスから発信していますので、返信機能を使えば自動的に新アドレスに送られます。

[]自己モニター続報 15:08 自己モニター続報 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自己モニター続報 - 西川純のメモ 自己モニター続報 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 9月3日のメモので全体ゼミでの「お願いします」という伝統のことを書きました。9月10日には、それが突然になくなったことを書きました。それに対して、9月10日の発表者であるHさんからこんなメールをもらいました。

『おはようございます

 今朝、西川研究室HPメモを拝見し、大変驚いています。沖縄風にいえば、「でぇーじしかんだ!(西川注 たいへんだ~)」というところです。

 今回「お願いします」のやり取りがなくなったのは偶然だったとみています。昨日は、私のほうがあがっていて、気が回らずに横柄な態度になっていたのかもしれません。正直、忘れてました。謙虚さが足らず反省しています。また、ふだんは「教えていただく」という発表レベルなのに、今回はそこまで達していなかったのも質問者から言葉が消えた一因でしょう。質問者はこれまでの「質問します宣言」ではなく、「じゃ、よろしく」的な軽い合図を送ってくれてました。次回発表ではこの暗黙ルールは復活しているはずです。

 しかしながら、ふと口をついて出る質問は、「質問するぞ」という構えがなく、発表者側が見落としていた部分をつくものが多いように思います。ある程度質問を予想し、構えて発表に臨むわけですが、予想外だったり、シンプルな質問には発表者の本音が答えとして出てしまいます。Koさんのつぶやき質問にはどきっとします。じゃれあいをテーマにすることは、現職としては今までの自分や同僚のやり方に異議申し立てをするような感じです。人によっては自分を否定することにもなりかねません。でも、じゃれあいを考えるときこれまでの教え子の姿がよぎります。あの子達が見せてくれたことを解いてみたい、次に活かしたいと思うとじゃれあいは私にとっては必要なテーマでした。

 それでは、雑感メールになってしまいましたが、「次回は復活する」という予想と5年間の慣習が私のところで途絶えてしまったことへの動揺と反省をお伝えしたいと思います。』

 このメールを受け取ってから、Hさんと話をしました。内容は、以下の通りです。

 Hさんは復活すると言うけど、私はそうは思わないよ。だって、5年以上の伝統がHさんという一人のキャラクターで途絶えることはないと思うんだ。それと、9月10日のメモで、その変化を私が肯定したように読まれるメモを書いたから、それを読んだゼミ生の方は「お願いします」を言わないようになるんじゃないかな~。

 その話をした翌日、実践研究実施のためHさんは沖縄に出発しました。

 昨日の全体ゼミは私は会議のため出席しませんでした(つまり、私もHさんも不在です)。発表者から後から聞いた話ですと、「お願いします」を言う人と、言わない人に分かれたそうです。結果は、Hさんの予想と、私の予想の中間あたりですね(Hさん、沖縄で読んでる~)。私としては「お願いします」という伝統も良いものだと思います。また、さりげなく質問し合うというのも良いものだと思います。結局、どうなるべきかはゼミの中で作り上げるものです。時間が過ぎれば、今回の一連の「メモ」の呪縛(あるかもしれませんし、無いかもしれません)から逃れることが出来ます。その際に成立したものが、その時点で最善なんだと信じています。

[]理想の授業 15:08 理想の授業 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理想の授業 - 西川純のメモ 理想の授業 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、新しい本の原稿を書いているところです。その出だしは、私の考える理想の授業の姿を描きました。簡単に言えば、教師の「出」は殆どない。表面上、いるかいないか分からないが、成績は上がるし、イジメ不登校はないクラスが成立している、という内容です。この原稿を、色々な院生さんに読んでもらっているところです。色々な指摘を受けます。いつも率直にものを言うKiさんから、「先生の理想の授業は、俺の理想ではないですね」と言われました。「それじゃあ、どんな授業が理想なの?」と聞きました。Kiさん曰く、教師と子どもが積極的に関わり合い、高めあっていくクラスを理想としていとのことです。なるほどと直感的に理解できます。しかし、あえて「でも、私の理想の授業も、Kiさんの理想の授業も、子ども立場に立ったら同じように楽しい授業だと思うよ」、「それに、子どもが積極的に関われる場面の多さで考えたら、教師対子どもという状態よりも、子ども同士という関係が主な状態の方が多いと思わない?」と申しました。Kiさんは、「それはそうですが、う~ん~」といって、でも、納得はされていません。

 昨日の全体ゼミは私は会議のため出席していません。現場学校に帰って実践研究を開始されている院生さんもおられ出席されなかった方も多かったようです。その関係西川研究室の世話係(もしくは大元帥閣下)Kiさんから、私及びゼミ生一同に下記のようなメールが来ました。

 「西川先生ゼミの皆様こんばんは。Kiです。本日の全体ゼミは、Mさんが行いました。参加者が少なくKoさん、Kuさん、Sさん、私となりました。西川先生はおられなかったが、Mさんが現場へ出向かれ調査開始されている内容をしっかりと発表され、さらにビデオまで模様が撮られていたのか知らないけど、多くの方が1度ならずも2度・3度もと発言され充実した1時間がおくれました。ありがとうございました。」

 読み終わって「う~ん~」と唸ってしまいました。私がいなくても充実したゼミが成立し、それもいつもより活発だったとのことでした。教師の「出」が少ない理想の授業です(なにしろ教師がいないんですから)。でも、一抹(いや、とっても多くの)寂しさがあります。Kiさんに偉そうなことを言ったけど、やっぱり寂しいな~、と反省することしきりです。よく、「楽しくなければ授業じゃない」という言葉があります。この「楽しく」感じるのは、子どもばかりではなく、教師もです。だって、教師自身が「つまらないな~」、「寂しいな~」と思っていたら、理想の授業は出来ません。だって、「つまらないな~」と思っている教師に、子どもたちに「学ぼう!」という目標を与えるという、教師のもっとも大事な仕事を果たすことが出来ませんから。でも、教師がそのまま「出」てしまったら、結局、元の木阿弥(もくあみ)です。 Kiさんから重要宿題を与えられたようです。今、我々は子どもに着目する研究をやっています。でも、子どもと同じ労力で、教えている教師を分析する必要があるんですね。