■ [ゼミ]欠席通知後日談
昨日の「欠席通知」、及び、9月17日の「理想の授業」に関連して、温かいメールをゼミ生(現職)の方からいただきました。感動ものだったので、公開しちゃいます。
「メール1」
どんな授業であっても「教師がわくわくして授業に向かっていき打ちのめされても、わくわくして帰ってきた授業」はきっとすばらしい授業だと思います。(中略)今深く考えているのは、理想の授業をする理想の教師像です。(中略)理想の授業をする教師は、そこにいる生徒(児童)のわからないことに思いをめぐらし授業を組み立てられる人であるか。速攻で、その場で生徒の様子を把握し考えられるベテランの先生はいますが、そうでないペイペイの教師は、授業をする前に、生徒の考えをあらゆる面から考え、だからこれをぶつけることで生徒と共に考えてみようと思いながら授業に立ち向かう教師であり、その教師の授業こそ、理想の授業となるように思います。その授業が、西川研でめざしている授業と全く逆であっても生徒の姿から考えようとしている教師は、きっと気づき、西川研でめざしている方向へ動いていくと思います。
「メール2」
お昼休みに職員室でメモ(注1)を読み、ボーっと学校の中を歩いてみました。こんなふうに客観的に(落ち着いて)自分の働く場所を見たことはなかったとびっくりしました。その時思いました。私は今まで「子供が主役」と言いながらも「授業」というステージを演出し、常にその中心に自分を置いてきたと。コンピュータを授業で説明するのも、「どうだ!すごいだろ!」というようにカッコつけた状態だったとかなり恥ずかしくなりました。先日もお伝えしましたが(注2)、私がカッコつけて説明しなくても子供はインターネットを使っています。(まどろっこしさはありますが・・・)うろうろと教室を歩き回っていると便利屋のように扱われているようで情けない気持ちになる時もあります。やはり教師をめざすときは青春ドラマような場面をイメージしたことがあり、子供のやりやすいようにと目立たないところで働いている姿はイメージしたものとはかけ離れているような気分になるのだと思います。(今日は、ある程度自信を持てる日だったせいか)それで良いじゃないか、と思えました。忙しさに押しつぶされて自分で自分にスポットライトをあてたくなることのないように過ごしていきたいものだと思いました。本当のプライドを手にするために。
注1:このメールは現在、実践研究のため現場学校に戻っている院生の方が、9月17日の「理想の授業」をよんだ感想のメールです。
注2:子どもに任せてみたらうまくいったことを報告し、いままで必死になって教え込んでいた自分がバカみたいに見えたという趣旨のメールを、前回いただきました。
うちの研究室(もちろん私個人も)は院生さんのおかげで成り立っているんだなと実感します。今在学している院生さんに偉そうに言っていることは、実は修了された院生さんから教えてもらったことです。また、今在学している院生さんから教えてもらったことを、数年後に在学している院生さんに、偉そうに話していることでしょう。
■ [お願い]今までやっていること、現在やっていること
最近ポカが多くなっています。先日は全体ゼミを忘れるなど、ゼミ生の方には迷惑をかけています。また、色々な仕事を院生各位にお願いすることも多く、心苦しく思っております。そこで、言い訳のため、現在おかれている状態を簡単に説明したいと思います。外部の方にとっては、これによって「学習臨床コース」がよく分かるのではと思います。
私は、色々なところで、「教師の仕事は目標の設定、評価、外部との調整」であることを強調しています。大学に在職していると、この「外部との調整」に多くの時間を費やさねばなりません。西川研究室、及び、戸北研究室が、外部の方々に理解してもらうよう一生懸命に努力していることは3つです。第一は「教科を学ぶ子どもに着目する研究の認知」、第二は「大学教育における学生・院生の選択権の確立」、第三は「予算の確保」です。
教科を学ぶ子どもに着目した場合、一つの教科の枠からはみ出すことがあり得ます。何となれば、子どもは小学校教育、中学校教育、高校教育を受けていて、その一つの部分を教科が担当しているに過ぎません。子どもの中では複数の教科で学んだことは渾然一体になっているはずです(また、なるべきです)。ところが、教科学習は国語・数学・理科・社会等々という教科ごとの単位で研究されていたため、なかなか認知されずらい状態でした。教育・心理系の方からは「教科を学ぶ子どもに着目する研究」は「教科」を対象とするのだから、教科領域のように思われます。逆に教科領域の方からは「教科を学ぶ子どもに着目する研究」は、子どもに着目するのだから教育・心理のように思われます。そのため、「教科を学ぶ子どもに着目する研究」は常に宙ぶらりんの状態でした。このような状態を打開するため、「学習臨床コース」が立ち上がりました。学習臨床コースの院生として入学された修士1年の方々にとっては当然と思われていることは、教科領域で入学している修士2年の方々にとってはうらやましく思っていると思います。
私は「科目に必修をかけることは良いけれど、人に必修をかけることは望ましくない」と思っています。例えば、卒業には「○○」という単位を絶対取らなければならないというカリキュラムは当然だと思います。例えば、注射の仕方を教えてもらっていない医者に、私は絶対に注射されたいとは思いません。しかし、その「○○」という単位を担当する人が特定の人であることは避けるべきだと思います。具体的には、「○○」という単位は、複数設けられ、別々な人が担当します。学生は、それらの中から選択する方法が望ましいと思います。もちろん、それぞれの講義を受けた後の評価、また、卒業後の追跡評価も必要でしょう。
また、指導教官の選択も同様です。学生が指導教官を選択できるべきだと思っております。また、一度選択したとしても、その後に異動できる権利を持つべきです。付け加えますと、同様に、指導教官自身もある条件を満たすならば、指導することを拒否できる権利を持つべきだと思います。この選択権の行使が、感情的にもつれることなく、事務的に進められるシステムを確立する必要があります。学校における人権問題(セクハラ問題も)の根元は、特定の教官が学生の生殺与奪権を持っていることに由来します。質は違っても、同等の人権であることを保障される関係が必要であると思っています。これは学生のためだけのことではありません。教官の側にも意味あることだと思います。少なくとも、私につきたくないな~、私の授業を聞きたくないな~という人を指導したり、講義したりすることは、私は願い下げです。これに関しては、すくなくとも学習臨床コースにおいてはかなり改善されています。
以上二つに関しては、学習臨床コースではかなり改善されています。しかし、この二つに関して我々とは逆なお考えの方も少なくありません。それらの方のご意見も説得力があることも確かです。したがって、以上二つを成立させるためには、常に説得し続ける必要があるわけです。
学習臨床研究にはお金がかかります。何しろ一人の院生さんが研究するためには2台以上のビデオカメラ、7~40台のカセットテープレコーダーが必要となります。その院生さん人数分が必要となります。さらに、一度研究に入れば、それこそ100時間以上の記録を取ることになり、結果として毎年かなりの数の機器が故障し使えなくなります。現在、学習臨床コース教官の基本研究費は四十数万にすぎません。その研究費の中で電話代金、講義にかかる消耗品等々をやりくりしなければなりません。従って、どう考えても先に書いた機器の確保は無理です。そのため、外部予算を獲得しなければなりません。そのためには、それなりの申請をしなければなりません。さらに、その申請が通るためには、それなりの実績を上げなければなりません。そして、予算を獲得した後は、その予算に見合った実績を報告しなければなりません。
以上、長々書きましたが、こんなことをしているのに頭を使っているためポカが多くなっています。お許しください。同時にご協力を是非是非賜りたく存じます。上記に書いたように、今ゼミ生のみなさんが得ている様々な諸条件は、先輩諸氏の実績の上に成立しているものです。同時に、常に努力し続けないと維持できない条件です。それでは、その努力とは、第一は「この研究室に所属して良かった」と感じてもらい、それを積極的に宣伝してもらうことです。第二は、学術的な貢献です。具体的には修士論文・卒業論文の成果が学会誌等に掲載されたり、学会発表することです。第二は、実践的な貢献です。具体的には修士論文・卒業論文の成果が教師用雑誌に掲載されたり、教師用講演会で発表することです。我々自身も、皆さんの成果が適切に知られるように、学術論文、実践論文、書籍、講演会、そして本ホームページ等の場で努力しているところです。そのためには、ゼミ生の方、OB各位、また、我々の研究を面白いと感じていただける先生方のご協力が是非是非必要です。お願いします。