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2002-04-02

[]生き残るもの 11:12 生き残るもの - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 生き残るもの - 西川純のメモ 生き残るもの - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、大学では生き残りでてんやわんやです。しかし、大学を取り巻く環境が、日替わりで激変している状態では、大学首脳陣でも分からないのではないでしょうか?ましてや私のような下々に、大学の生き残りがどうなるかなんて分かりません。そうなると、少なくとも自分及び我々の研究室の生き残りを考えなければなりません。そんなとき、今日の朝のテレビを見ていたとき、全日空入社式における訓辞が紹介されていました。その中で、ダーウィンの「種の起源」の中の「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」という一節が引用されていました。 実際には、ダーウィン言葉ではないようですが、実に的確な言葉です

 生き残りに追い立てられると、その時点で最善・最強の策をとりがちです。しかし、生物進化の中でも、歴史においても、ある時点の強者が、次の段階では跡形もなく消え去りました。今求められているのは、最善・最強の策ではなく、変化しうる策だと思います。変化しうるならば、自ずとその時点での最善・最強の策が出てきます。同時に、次の時代において最善・最強となる可能性のある数多くの策の芽が出るはずです。

[]育児できにならなくなったこと 11:12 育児できにならなくなったこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 育児できにならなくなったこと - 西川純のメモ 育児できにならなくなったこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 実は私は強度の心配性です。例えば、研究室を退出する際は、火の用心・鍵用心が心配で心配でなりません。指さし確認を何度も繰り返し、退出するまでに10分以上かかる場合もあります(こうなると一種の病気です)。頼まれた原稿は、大抵の場合、数日でこなします。なぜなら、もし原稿が間に合わなかったら・・と思い始めると、不安で不安でならなくなります。それから脱する方法は、原稿を書き上げるしかありません。

 そんな私ですから、育児では心配だらけです。私が心配がると、家内に不安を与えますので、努めて平静を保っていますが、内心はビクビクものです。大抵の場合は、育児雑誌をそっと覗いて、安心します。ところが、育児雑誌にも書いていないことがあります。多くは、育児を終わった方や専門家は、書くほどもないと判断されるたぐいのものです。おそらく、そうだろうな~とは想像できるのですが、心配性の私は心配で心配でなりません。

 今朝、息子のおむつを変えようとしたところ、全くおしっこをしていません。そのとき、生まれて数ヶ月の時のことを思い出しました。その頃も、今朝と同じようにおしっこしなかったときがあります。その時は、「もしかしたら腎臓の機能が不全なのでは」、「人工透析しなければならないのでは」と考え込んでしまいました。育児書を見ても、夜おしっこをしない場合のことまでは書いていません。次のおしめ替えの時、おしっこで濡れていることを知り、ものすごく安心しました。そんなことを繰り返すうちに、朝おしっこで濡れていなくても平静を保てるようになりました。

[]ジャンダーフリー 11:12 ジャンダーフリー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ジャンダーフリー - 西川純のメモ ジャンダーフリー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今日、ある院生さんと話した際、ジェンダーフリーのことに関して話題が行きました。我々の研究室では、社会的につくられる性別(ジェンダー)によって、教科学習における男女の行動がどのように影響しているかを研究しています。そのことを説明した際、「そうやって男女別にデータを取ろうとすること自体、ジェンダーフリーではないですよね」と言われました。もっともな話です。

 その種の話題は、研究室内での話し合いでもよくあります。色々議論して、だれかが「でも、この議論自体も男女に囚われているよね」と言うと、一同、「そうだな~」と納得します。しかし、何かを測定するという場合、客観的な測定というのは幻想にすぎません。客観性を重視する自然科学研究においても、何らかの仮説がなければ、実験計画を立てることは出来ません。例えば、これこれの結果が出るだろうと予想(ある意味では偏見)を持っていなければ、実験計画は立てられません。従って、「ジェンダー存在するであろう」という仮説のもとに研究を進めること自体を否定することは、理屈としては成り立ちますが、あまり実り多いものにはならないように思います。

 しかし、我々の研究室でのジェンダー研究において見失わないようにしていることがあります。それは、「男女は同じであるべき」、また逆に、「男女は違うべき」という理想像を設けないようにしています。我々の研究室では、「かくあるべし」という姿は、子どもが示してくれるだろうと思っています。そのために、出来るだけ(あくまでも出来るだけですが)ジェンダーフリー環境子ども与えたとき、子どもたちがどのように行動するかを見ます。その時、男女の行動に差があるならば、その行動が子どもたちにとって妥当な姿であると信じます。逆に、男女の行動に差が見られなければ、その行動が子どもたちにとって妥当な姿であると信じます。基本は、子どもを信じるということです。