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2002-04-25

[]無意味二元11:06 無意味な二元論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 無意味な二元論 - 西川純のメモ 無意味な二元論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室における研究に関して、「グループ学習だけではだめで、個人の活動が重要である」とか、「人間関係は良くなることはわかるが、基礎的学力は大丈夫か?」のような疑問を持たれる方もおられます。この種の「グループ対個人」、「生徒指導対教科指導」という対比は、他ならない我々研究室に所属される方も、一度は陥る二元論的解釈です。

 我々が「学び合い」に着目しているのは、一人一人の子ども、それも全員が救われることを目的としています。我々の研究室に所属される方は、「クラスの過半数がわかったからいいや」という見方に徹することができず、そのクラスの過半数に含まれない子どもたちのことが気になってしょうがない方々だと思います。そのような子どもを救うために、「食いつきのいい教材」、「分かりやすい、興味を引く教え方」をいろいろと試みて、それなりの成果をあげていた方です。しかし、そのような教材や教え方でも、すべての子どもを救えないことが、心の隅で気になって気になっている方です。そのような少数の子どもも含めて、すべての子どもが全員救われるためには、教師対子どもという図式では解消し得ないため、教師を含めた子ども集団全員で学び合おうとしています。けっしてグループ学習のためのグループ学習をしているわけではありません。

 そもそも、個人の活動とグループ学習を対比させることは、両者を分けられるという考えに基づくものです。個人が生き生きするためには、良好な相互学習が成立することが前提と我々は考えています。逆に言えば、良好な相互学習が成立するためには、個人が生き生きすることが必要と考えています。両者はコインの両面で分けることはできません。しかし、現状では学びを個人のレベルで解釈することが大勢であるため、我々は、他方を強調するにすぎません。学び合いの姿を見ることは、個人の生き生きした姿を見ることと他ならないことは、実際に子どもをみれば一目瞭然です。

 同様なことは生徒指導対教科指導という二元論的解釈も同様です。自分に置き換えてください。良好な人間関係常識的な行動が無い状態で、学習できるでしょうか?逆に言えば、生き生きと学習できる時、ことさら人間関係を荒立て、非常識な行動をするでしょうか?ましてや、学び合い学習に良好な手段であるならば、学習目的とする人が人間関係を良好にし、常識的な行動をするのは当然です。両者は不分離です。ただ、教科学習の生徒指導的意味が意識されていないことが大勢であるため、人間関係を強調するにすぎません。 勉強とは「つとめ」、「しいる」と書きます。きっと、学ぶことはつらいことだという前提があるのかもしれません。しかし、本当は学ぶことは楽しいことです。たしかに「たいへん」であることは確かです。しかし、「たいへん」であっても、それをやりたいと思わせるだけの何かが常にあるべきだと思います。

 私自身は二元論的解釈をすることを悲しく思います。なぜ、子どもたち相互に学び合うことが、個々人の学びを損なうと考えるのでしょうか?たしかに、グループ学習のためのグループ学習であるならば、そうかもしれません。また、我々がみている子どもたちの中に、そのような状態に陥っている子どももいることが少数いることは認めます。しかし、子どもたち相互の学びが、個々人の学びと相乗効果を起こしている事例を数多くみています。同様に生徒指導のための生徒指導ならば、教科学習に矛盾する場合もあり得るでしょう。しかし、我々はすばらしい人間関係常識的な行動が、教科学習と相乗効果を起こしている事例を数多くみています。

 百聞は一見しかず。数ヶ月、子どもの姿を丹念に見れば、二元論的解釈は無意味であることは見えるのにな~と感じます。すくなくとも、二元論的解釈の二つの要素が、矛盾無く相乗的である状態があること、そして、それは希なケースではないことに気づくことは保証できます。そして、それらが全員に行き渡るか否かは、その教師の授業観、子ども観であることにも気づくと思います。

 結局、上記のような誤解を生じさせている原因は、我々の研究が単なるグループ学習の指導法(もしくはテクニック)のようにとらえられているために生じるものだと思います。そして、そう思わせている原因の大半は私の「話」や「本」の表現の問題だと反省することしきりです。しかし、我々が目指しているのは、「子どもは有能である」という子ども観、「教師の仕事の第一は、子ども目標を与えること」という授業観の確立です。

 わかってもらえないのかな~・・・

追伸 このメモを書いたら、早速、現場に帰って調査している所属院生の方から以下のメールをいただきました。現職者からのメールで勇気百倍!「敵は幾万ありとても、我に信ずるに足る友あり!」

メモ読みました。例の二元論、やっぱほんと数ヶ月にわたって子ども見ると分かることだと思います。見ないで語るから、理論だけが先行するんじゃないでしょうか?解決する方法は単純です。西川先生のおっしゃるとうり『子どもを長期にわたってみること』これしかないと思います。子どもの姿は正直なものです。生意気なこと言いましてスミマセン。」