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2002-05-10

[]子どもの目は何ルクス 10:49 子どもの目は何ルクス - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもの目は何ルクス - 西川純のメモ 子どもの目は何ルクス - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ちょっと前のメモで、学術研究と実践研究の比較をしました。もう少し、具体的な例で比較したいと思います。例えば、学術研究者が実践研究揶揄(やゆ)する典型的な言葉に、「子どもの目が光っていたって言うけど、何ルクス?」とか「本当に目が光っていたら化け物か宇宙人だよね?」というものがあります。私自身も使ったことがある言葉です。

 私自身が上越教育大学に赴任した当初、初めて附属学校研究会に参加しました。しかし、まったくチンプンカンプンです。最初は、私が義務教育の教員経験がないから分からないのかなと思いましたが、それにしても全く分かりません。一方、参加する数百人の現場先生方は熱心にメモを取っています。そんなことが何年も続きました。しかし、ついに耐えきれなくて、一緒に来てくれた院生さん(現職教員)に、おそるおそる「僕は全く分からないんだけど○○さんは分かるの?」と聞きました。それに対して、「これと同じような実践をしたことがあるから、だいたいどんなことが起こって、発表者が何を言いたいのか見当が付くんですよ」と教えてもらいました。なるほど、と納得しました。それにしても、発表者の「当然、分かるはずだ」という様子がとても気になりました。つまり、附属学校研究に代表される実践研究は、「分かる人には分かる」ことを前提にしています。おそらく、分からない人がいるなど想像も出来ないのでしょう(子どもが分からない理由を想像できないように)。でも、大多数の参観者が納得しているんですから、それはそれで認めるべきなのだと思います。

 実践研究で用いられる「子どもの目が光っていた」という表現は、「授業がうまくいった」という状態を示す決まり事みたいなものです。実践研究を読む人が、それに似た実践をしている場合、読者の方で補完して理解しているので問題がありません。しかし、私のように、そのような 実践を経験していないものに対して説明するならば、もっと別な説明の仕方があるように思われます。

 それでは学術研究ではどうかといえば、「子どもの目が光っていた」という状態を、客観的に評価できる確実な方法を探します。例えば、アンケート用紙で「楽しかった」に○を囲んだ子どもの数などが代表例です。教育研究の測定法には2種類の妥当性が求められます。一つは、計る対象が、計りたい目的のものに対応しているかという妥当性です。二つ目は、その方法で計った結果は、もう一度計ったとき出る結果と一致しているかという妥当性です。前者は「正確」に対応し、後者は「精密」に対応します。私の独断と偏見によれば、従来の学術研究では、後者の「精密」ということを重視していました。ところが、前者の「正確」ということには、ある程度、目をつぶっていたように思います。例えば、「アンケート用紙で「楽しかった」に○を囲んだ子どもは、本当に楽しかったのか?」、「先生の手前、○を囲まざるを得なかったのでは?」という疑問に対しては、「他に精密さを保方法がない」という理由で目をつぶっていたように思います。

 でも本当でしょうか?実は、教師が「目が光っていた」と表現するときには、子どもたちは特有の行動をしているはずです。その行動を丹念に拾うことも可能です。しかし、教育研究では、どんな行動が起こっていたかを自問自答する努力が足りなかったのではないでしょうか?また、その行動は「いつ」、「どこで」、「だれが」、「どのように」行っていたか、それを丹念に記録していたでしょうか?また、それをただ一つの事例としてあげるにとどまらず、クラスにおける全ての子どもの行動を、もう一度見直し、数量化し、一般化することは可能ではなかったでしょうか?

 その問いかけが、今の研究手法を採用している理由です。ものすごく手間のかかることです。しかし、実りの多い研究手法だと自信を持っています。