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2002-05-21

[]通勤・通学 10:37 通勤・通学 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 通勤・通学 - 西川純のメモ 通勤・通学 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 過去において、私は通勤・通学で苦労したことがありません。小学校中学校は家の近くの公立学校に通学しました。高校は家に一番近い高校を選びました。大学1、2年は大学敷地内の学生宿舎にいましたので、通学時間は0分です。3年以降はアパートですが、大学の敷地までの距離は300m程度でした。高校就職しましたが、距離は1km程度でしたので、歩いて通勤しました。上越教育大学就職してから3回転居しましたが、いづれも4km程度です。地方都市ですので渋滞もありません。家のドアを出て、研究室のドアにたどり着くのが15分程度です。

 テレビ東京の酔っぱらいにインタビューする番組が毎週あります。ベロンベロンに酔っているんですが、おそらく、その後1~2時間程度時間をかけて帰宅すると思われます。私にはとても信じられません。家から一番遠い場所で飲み会があったとしても直江津ですので、家まで20分ぐらいで帰れます。官舎は高田の中心地にありますので、最も近い飲み屋でしたら、5分程度でコンパから帰れます。

 地方都市にいると「大きな本屋がない」という不満がありました。しかし、インターネット上の本屋の出現によって、その不満は解消されつつあります。また、学会出張するとき交通の便が不便だという不満もあります。(東京にいる人は、気楽に会合を東京で開きますが、1時間の会合のために1日潰す地方の気持ちが分かっていません。)しかし、学会にせよ、会合にせよ、年間の回数は限られます。週5回の通勤が15分で行けるというメリットは捨てがたいものだと、今日通勤途中で「ふと」考えました。

[]写真記録の頻度 10:38 写真記録の頻度 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 写真記録の頻度 - 西川純のメモ 写真記録の頻度 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 生まれた当初は何かあると写真(またはヴィデオ)を撮っていました。しかし、最近はめっきり少なくなりました。けっして写したいなという場面が少ないわけではありません。親ばかで、「なんて可愛いんだろう!」と思う場面は少なくありません。でも、記録することは少なくなりました。理由は二つです。第一に、息子が歩くようになったためです。第二に、歩く以前からカメラやヴィデオに興味を持っているためです。この二つが重なると、私がカメラを向けたとたんに、息子がカメラに突進するためです。そのため、カメラを向ける直前までやっていた、「なんて可愛いんだろう!」と思わせる、やっていたことを全て中止してしまいます。さらに、そのカメラにさわろうとして必死になって私にむしゃぶりつきます。したがって、私にとれる息子の姿は、私の立っている足にしがみついて、私の方を見るために上を向いている姿のみです。

 次に、息子をバシバシとれる状態になるのは、写真(ヴィデオ)の被写体になるということはどういうことかを理解できる年になる頃かもしれません。いったい何歳なんでしょうか?

[]「プレッシャー」を書いた後 10:39 「プレッシャー」を書いた後 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 「プレッシャー」を書いた後 - 西川純のメモ 「プレッシャー」を書いた後 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日、帰宅する際、昨日アップした「プレッシャー」というメモのことを考えました。そのとき、あのメモには省略した部分があり、我々の研究室以外の人の中には意味不明部分もあることに気づきました。

 昨日のメモに書いたように、Hさんの抱える問題は、クラスグループの中には、相対的に仲がよいとは言えない班があるということです。それに対して、私の提案した方法は、クラス人間関係を利用して、一生懸命やらざるを得ない場を作り出すというものです。つまり、私は仲が良くなる方法を提案しているのではなく、一生懸命にやる方法を提案しています。そうなると、「一生懸命になるかもしれないが、何故、仲の良くない班が仲が良くなるか分からない?」という疑問が生じるのが普通です。しかし、少なくともHさんと私の会話の中では、このことは問題になりませんでした。つまり、Hさんも私も、一生懸命になることイコール仲良くなることと理解していたためです。

 それでは、何故、一生懸命になると仲良くなるのでしょうか?それは、一生懸命になれば、その目的を達成するために、同じ班のクラスメートと協力するからです。このことはごく自然な予想です。しかし、「それは目的のために協力しているだけで、仲良いとは言えない」という反論が出そうです。しかし、我々が目指しているクラスにおいては、テレビ番組のような、みんなみんな仲良しこよしという姿ではありません。人間ですから、馬が合う合わないがあって当然です。しかし、馬が合わなくても、それなりに認めており、一緒に協力し合うことは出来ます。

 私は中国料理ピータンが嫌いですが、見たとたんに騒ぎ出すほどではありません。もし、招待された家で、ピータンが出されたときは、嫌いなことを気づかれないように食べることは出来ます。私は好きですが、ニンジンが嫌いという人は少なくありません。しかし、ニンジンを丸ごと一本食べられなくとも、料理の中にあるニンジンを一つ一つ取り除かなければ食べられないというわけではないなら、それほど問題ないのではないでしょうか?ニンジンの嫌いな人に、「何でニンジンが嫌いなのか?」と聞いても、意味がありません。本源的には、嫌いだから嫌いなんです。そんな人に、ニンジンを好きにさせることは実り多いとは思いません(不可能とはいいませんが)。しかし、それよりは、ニンジンと折り合いを付けて生活できるようにする方が実りが多いと思います。人間関係も同じです。嫌いな人と仲良くさせる指導をするよりも、嫌いな人と折り合いを付けることを学ばせる方が実りが多いと思います。嫌いな人と仲良くさせる指導をするより、嫌いでも好きでもない人を、好きになる方法を学ばせる方が実りが多いと思います。

 前に「無意味二元論」というメモに書いたように、我々は認知的な教育意味も、情意的な教育意味も、人間関係的な教育意味も、その他の教育意味も分けることは出来ないと考えています。我々は自然な状態で学ぶならば、トータルに学ぶはずです。逆に言えば、トータルに学べないものならば、本質的に学ばなければならないものではないのでは無いでしょうか?