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2002-06-25

[]育児 09:42 育児 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 育児 - 西川純のメモ 育児 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家内が買ってきた育児雑誌を何気なく読んでいると面白いことに気づきました。その雑誌の中に、「子どもをやる気にさせるママの実践アイディア8」というものがありました。その八つとは、「なるべき手を出さずに見守る」、「テレビビデオを上手に使って」、「焦らないで遊びとして楽しく」、「ママと一緒にやったり見せたり」、「やりやすくなるような工夫を」、「あまのじゃくを利用した作戦」、「お友達がやるのを見せる」、「やりどきがある!から無理をしない」です。思わず、笑い出しました。我々の初等・中等教育における教え方の主張とほぼ一致しています。

 「なるべき手を出さずに見守る」、「焦らないで遊びとして楽しく」、「やりどきがある!から無理をしない」の三つは、教師は教えるのを控えるべきだという主張と一致します。

 また、「やりやすくなるような工夫を」は教師の仕事は、環境を整えることだという主張に一致します。

 「テレビビデオを上手に使って」、「ママと一緒にやったり見せたり」、「お友達がやるのを見せる」は、教師の仕事目標を与えることであり、他者との関係目標を設定させるという主張と一致しています。最後の「あまのじゃくを利用した作戦」というのも実はこれに含まれます。我が家の場合は、息子が片づけをしないとき、わざと「じゃあ、お父さんが片づけようかな~」と言うと、必死になって片づけ始めます。親に自分の実力を認めさせる機会を失うまいとする息子の気持ちに火を付ける方法です。

 なんでこんなに一致するのかと考えました。答えは簡単です。我々は子どもは愚かではないと考えています。我々は大人と同様に高校生も有能であると考えます。同様に、中学生も、小学生も大人同様に有能と考えます。さらに、それを進めると幼児も有能であると考えます。従って、幼児において有効な方法と、初等・中等教育で有効であるのは当然と考えます。

追伸 ちなみに、この論法を推し進めると、上記の方法は30~40歳院生さんにも有効な方法とも言えます。つまり、「院生やる気にさせる、指導教官の実践アイディア8」とも言えます。でも、逆に言えば、「指導教官を やる気にさせる院生の実践アイディア8」とも言えるわけです。

[]フロンティア 09:42 フロンティア - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - フロンティア - 西川純のメモ フロンティア - 西川純のメモ のブックマークコメント

 修士1年の研究テーマが決まりつつあります。その研究には、表面に出る題目以上の重要テーマが隠されています。先週の金曜日はKaの発表がありました。Kaさんのテーマは、簡単に言えば協同で作文をつくるというものです。作文は一人で書くものと堅く思っている人には「えっ?」という内容ですが、我々にとっては驚くべきレベルのものではありません。しかし、何気なく聞き逃しそうなテーマですが、その中にはきわめて重要テーマが隠されています。

 Kaさんは高校国語先生です。扱うテーマ国語です。かつて国語の時間の話し合いを調査したことがありますが、あくまでも比較対照という位置づけのように思います。その意味で、国語を真正面にとらえた研究は、我々の研究室では初めてです。その結果、今まで我々が意識していなかった問題が表面化します。今まで我々が扱っていたコミュニケーションの内容は「事実」です。事実を伝えるのであれば、どれだけ正確に、かつ大量に伝わっても問題ありません。ところが、感情の場合はそうではありません。想像してください。他人のどろどろした感情を知りたいでしょうか?我々のコミュニケーションにおいては、たとえ親しき仲であっても、自身の感情を修正し、一部を削除して伝えています。また、そうあるべきだと思います。感情のコミュニケーションを扱うならば、適切な感情の伝え方を考えなければなりません。 ところが国語の場合は、その「感情(もしくは内面)」を扱う場合があります。

 また、作文という「個人」というものが強いと思われている題材を扱うために、もう一つの面白いテーマが生じます。それは、個の中にある集団と、集団の中にある個というテーマです。グループ活動すると個が圧殺されると考える人も少なくありません。しかし、我々はそうは思いません。グループ活動をしたとしても個を圧殺しない集団は作り得ると考えています。同時に、我々が個人で作文をつくっている際、まさに自分一人で書いていると感じます。しかし、自分一人で書いていながらも、たえず、書く相手を意識しています。つまり、個の中には集団があります。Kaさんの研究は、個と集団の望ましい関係が成立することを示す研究でもあります。それによって、グループ学習と個性化教育矛盾するという、無意味二元論を乗り越えられます。

[]子どもを抱く父親の特権 09:42 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 この前の日曜日、近くのドラッグセンターに買い物に行きました。家内は店内へ行きました。一方、私と息子は店の後ろに特設された「ふれあい広場」に行きました。そこでは、羊、山羊、ロバ、ウサギがいて、自由にさわれます。5歳ぐらいの子どもたちが群れて、さかんに触ったり、抱いたりしています。息子は興味があるようなのですが、怖がって私の胸にぎゅっと抱きつきます。しばらく眺めさせた後、店内の家内に合流するため店に向かいました。と、ちょうど店内から荷物を持って出てくる家内にばったり。見ると、おむつ関係の試供品を山ほどもらっていました。悔しいので、私も息子をだっこしながら店内に入り、宣伝員の人のあたりをうろうろしていました。幸い、宣伝員の人が気づいて、息子におもちゃを与え、私には試供品を渡してくれました。

 スーパーで買い物していると、女性家内には試供品、試食品を出してくれます。ところが男の私には見て見ぬふりです。心の中で、「これって男性差別じゃないか」なんて思います。となると、それほど欲しくも食べたくもないものが、無性に欲しくなります。40すぎた男としてはバカみたいだとは自覚しているのですが・・・。しかし、息子をだっこしているときは無視されないことに気づきました。試食コーナーを通ると、息子に差し出してくれます。また、ベビー用品の宣伝員の前を通ると、それなりに説明してくれ、試供品をくれます。なにか自分が偉くなったような気がして、とてもうれしくなります。

追伸 結果として、家内と私で2倍の試供品をもらうことが出来ました。ところが、おもちゃが二つ重なっていて、それは二つはいりません。捨てるには忍びない可愛いおもちゃでしたので、プレパパのYさんにあげました。Yさんも子どもをだっこすれば、宣伝員に無視されずもらうことが出来るはずです(あと数ヶ月です)。

[]6月25日の感激 09:42 6月25日の感激 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 6月25日の感激 - 西川純のメモ 6月25日の感激 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日も感激しました。院生のYさんが個人ゼミを申し込んできました。以前のように「第二十六回の個人ゼミです」といって話され始めました。内容は、ジェンダーに関する研究です。Yさんは昨日も、実践研究で収集した膨大なビデオカセットテープを視聴して、何が起こったかを一つ一つ記録されていました。その中で、非常に重要な事例に気づき、感激したので個人ゼミで話したいと おっしゃっていました。つまり、私に自慢にこられたということです。それまでの分析で、自分自身の姿を見直すという方法で、教師がゴチャゴチャ言わなくても理科におけるジェンダー改善することが明らかになりました。それは、以前のゼミで報告のあったとおりです。しかし、Yさんが感激したのは、ジェンダー教育がそれにとどまらないことを示す場面を見いだしたためです。その場面とは以下のような場面です。

 初期状態では、リーダー格の男子実験を仕切って、女子は実験に参加できませんでした。しかし、自分自身の姿を見直すという方法で、その子は女子に対して「やる?」と、サイダーの瓶の栓を抜く権利を譲りました。小学校先生によれば、炭酸実験においてサイダーの栓を抜くことは、その実験における華であるそうです。それを女子に譲ることは、大人の目から見える以上の行動といえます。しかし、感激したのはそこではありません。権利を譲られた女子の言動が感激ものです。その女子も実験操作を今までやったことはありません、当然やりたいという気持ちはあったと思います。しかし、「いいよ、Y(男子)だっていつもやっていない。」とYに譲ったんです。それを受けてリーダー格の男子が「そうか、Yやってみ。」と勧めます。ためらうYに女子は「ぱっと抜かないと」と元気づけ、サイダーの瓶を押さえてあげました。また、リーダー格の男子も「ぱっとやって、ぱっと。」と元気づけます。Yが栓を抜くと、別の男子が「シュー」と栓の抜けた音を出し、別の女子は「出来た、出来た」と賞賛します。

 ちょっとした場面です。バカみたい見えますが、私は感激しました。私はウルウルきましたが、きっとYさんも昨日は一人視聴しながら感激されたんだと思います。Yは知的障害のある児童で、そのため実験には参加できない状態でした。自分を見直す経験を通して、リーダー格の男子児童は女子の立場を考え、女子に権利を譲る行動をしました。しかし、女子は自分を見直す経験を通して、男子対女子という枠組みで理解するのではなく、もっと高い次元でYさんが与えた場を理解していたようです。そのため、男子であるYの立場を思い、権利を譲りました。その女子の行動に触発され、他の班員も等しくYをもり立てようという意識が芽生えることが出来たようです。

 ジェンダー教育研究しようとすること自体「ジェンダー」だという批判はあります。そのことは理解していつつ我々は研究しています。しかし、上記の事例は、そのような批判に対して明確な答えを与えているように思います。即ち、仮に「たかが教師」がジェンダー意識を持って指導しようとしても、子どもの方はより高い次元でそれをとらえなおしていると。感激しました。