■ [発見]成果の積み上げ
私は全学必修の初等免許科目を担当しています。私が1時間半、講義する時間が最初の部分にあります。しかし、中盤、後半では学生さんの発表が主体となります。形式は1時間半を3つに分けて、二つの学生さんの班が30分担当し、最後の30分を私がまとめるという形式です。学生さんには、「難しいことをやらなくても良い、確実に一つのことを同級生が学ぶようにして欲しい」、「30分間は飽きさせず、楽しい発表にして欲しい」と求めます。この発表を通して、夏休み明けの教育実習における度胸をつけることと、教材研究と話し方の基礎的能力を実体験を通して学んで欲しいと希望しています。学生さんは教師になりたいという希望があります。そして、この発表が教師としての能力が問われていることも十分理解しています。従って、何としてもウケたい、何としても最後には「なるほど~」と同級生に言わせたいと躍起になります。なにしろ、下手をすると、同級生80人から「つまらないぞ~」、「わからないぞ~」という無言の圧力を受けるという制裁がきます。そのため、ありとあらゆる能力を総動員して発表の準備をします。一つ一つの発表を見ることは、私自身も勉強になります。しかし、おもしろいのは発表を積み上げたときの変化です。
それまでの学生さんの知っている発表は、大判の紙に資料を書き、それを前に淡々と話すものだと思います。しかし、「分かりやすく」ということから、模型やビデオを使い始めます。最初の班では自作ビデオを使っただけで、それなりに同級生に感心されます。しかし、次の班はそれ以上にならねばならない状況に追い込まれます。結果として、ビデオの編集にこり始め、字幕、音楽、そして何よりも内容の吟味が行われるようになります。また、「面白く」ということから、劇、掛け合い、扮装が取り入れられます。見ていて爆笑ものです。それがだんだんエスカレートします。 かつてのある班からは、ハシゴを使って二階の教室に窓から登場したいと言い出した班があります(危険だからということで却下しました)。また、ホームページで公開することが憚られる、奇想天外なアイディアを出すようになります。その変化の方向性は、全面的に是認できるものではありませんが、前の班の成果が後の班に変化を促していることは確かです。
そんなことを考えていたら、ふと、思いつきました。小学校で調べもの学習というのがあります。毎年、「○○学年では○○というテーマ」というものがあり、結果として毎年同じような発表をすることになります。でも、昨年の成果(例えば紙新聞、または発表場面のビデオ記録)を、次の学年がその学習を始める最初に見ることは無いように思います。でも、何故でしょうか?もしかしたら、前の学年の成果を「まるっぽ写し」するとでも思っているのかもしれません。でも、そんなことはしないはずです。少なくとも、そのようなことが無いようなクラス作りは比較的簡単です。だって、「まるっぽ写し」して教師をだまくらかそうとしても、同級生にはおみとおしです。すくなく「分かるだろう」と予想するはずです。もし、その結果として「な~んだ、おまえらの班はその程度か」と言われる(それいぜんに言われるかもしれないと思った時点で)ことは彼らにとって相当きついものだと思います。また、他の班が良い発表をしていれば、「自分たちも!」と思うのが人情だと思います。結果として、昨年度の上級生の成果を見ることは、それを越えることを自立的に求められると思われます。だから、「いい方法なのにな~」と思うのですが。
ここまで書いて、また、ふと気づきました。我々の研究室では、OBの成果は院生控え室に置いており、いつでも読めます。また、OBの成果は様々な媒体で発表しておりますし、かつ、それがOBの成果であることは明示しています。また、私たちの会話に置いて、OBの成果は常識として使われます。これって、調べもの学習で前年度の学年の成果を見せるのと同じだな~と感じました。そう考えると、OBの修士論文ばかりではなく、ゼミ発表の資料、演習での成果、学会での発表、ゼミ発表・・・を記録に取り、公開することは有効だと気づきました。