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2002-07-08

[]夏休み 09:33 夏休み - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 夏休み - 西川純のメモ 夏休み - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年の夏も、忙しい日々になりそうです。夏期休業中に、福井県教育センターの講演(小学校理科教師対象)、新潟県教育センターの講演(高校国語教師対象)、群馬県総合教育センターの講演(小中高の教務主任、学年主任対象)があります。その他に、東京兵庫会議があり、福井大学で集中講義があります。また、横浜国立大学日本理科教育学会)と信州大学日本学校教育学会)で学会があります。その他に、資料収集で全国の図書館に行きます。結果として、3週間ぐらい家に全く帰れないという状態になってしまっています。

 出張の予定を、なるべく夏休み期間に集中させている私が引き起こした状態ですが、改めて移動計画をたてて愕然となりました。自己管理能力のない私は、家内の庇護下から離れると、急激に体の調子が低下します。家に帰るまでは気が張っているのですが、駅で待つ家内の車に乗ったとたんに疲労感が出ます。顔を見ると目の下にくまが出ます。私の友人に年間百数十日間、出張する研究者がいます。また、教科書関係の営業の方と話すことがありますが、その方の場合は年間二百数十日は出張です。とにかく、そのような方に関しては畏怖を感じます。

[]懇親会 09:33 懇親会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 懇親会 - 西川純のメモ 懇親会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学会に参加する理由は何でしょうか?

 「学問の最先端にふれる」というのが公式的な解答です。しかし、「酒を飲むこと」と大学院の時に教えてもらいました。学会では全国から研究者が集まります。そうすると、大学院の先輩・後輩に久しぶりに合うことが出来ます。また、学者生活も長くなりますと、よく知った研究者と会うことが出来ます。日頃は電子メール等でのやりとりですが、実際に合うと、集中的に話し合うことが出来ます。学会では懇親会というのが設けられており、主立ったメンバーが出席します。そうなると、一度に色々な人と挨拶が出来、話が出来、とても有益です。この懇親会に胸を張って出席するために、学会発表をするという方は少なくないと思います。

 しかし、今年は学会主催の懇親会には出るのはやめようと思います。理由はいろいろあります。

 第一に、私は大人数で飲むのが苦手です。毎日、顔を合わせている院生さん、学生さんと一緒に飲むのは苦労はありません。ところが、そうでない方と飲む場合、色々と気を遣ってしまいます(「俺の話に飽きているな~」、「あの人のグラスが空いているな~」、「あの人に挨拶にいかねばな~」等々)。結果として、酔えません(そのため、大学時代大学院時代は、私は酒豪と思われていました)。その結果、より多くの酒を飲みます。その結果、次の朝に強烈な二日酔いに襲われます(本当の酒豪ならば二日酔いにならないはずです)。

 第二に、私は42歳です。普通の世界ですと中堅に位置しますが、学会では若造に毛が生えたぐらいです。私は「やること」、「書くこと」は大胆なんですが、面と向かうと小心者です。そのため、学会のお歴々にお会いすれば、米つきバッタのようにお詫び、言い訳をしなければなりません。結果として、逃げられない仕事を請け負わなければならないはめに陥ります。

 第三に、若い頃は「顔を売る」必要性がありました。ところが、研究生活も20年となりますと、良くも悪くも顔は知られています。従って、売る必要性がありません。逆に、のこのこ顔を出すことによって悪名が広がる危険性もあります。

 以上3つの理由に共通しているのは、「我が儘」になったということです。そして、その背景としてはギトギトした欲が薄れ、体力が落ちた、即ちジジーになりかけているということです。

[]発達 09:33 発達 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 発達 - 西川純のメモ 発達 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「発達」という言葉が好きではありません。かつては「発達」という言葉をよく使いましたが、その反省も含めて、現在ではなるべく使わないようにしています。院生さんとの研究の話し合いにおいても、「発達」という言葉が発せられると、とたんに私の中の「警告ランプ」が点灯します。

 私の研究の出発点は概念研究です。代表的な手法は、典型的な理科の問題を児童・生徒に与えて、その学年変化を測定するものです。その際、「発達」という言葉を使っていました。しかし、いくつかの問題点があります。第一に、教育心理学では、「発達」とは身体的な変化を伴うものであるものを指します。ところが、教科教育では知識・技能の蓄積をも含めたものを「発達」という言葉で表します。教科教育研究の中心となっている小学校児童の発達は少なくありませんが、乳児・幼児に比べて、その変化は小さいことは常識的にも分かります。さらに、認知心理学の知見によれば、従来、発達しているという基礎的認知能力も、実は乳児の段階でも成熟しています。そうであるならば、中学校高校の生徒に「発達」という言葉を使うことには無理があると思います(発達が皆無とは言いませんが)。

 でも、根本的な問題点は、その言葉が使われる理由です。ある学年、あるクラスで、ある課題が出来ない場合、「発達段階が十分ではない」という理由付けをする場合は少なくありません。また、学年変化が見られた場合も、「発達により変化した」と解釈します。しかし、そのような「発達」は、何も説明していないし、何も生み出しません。「発達」という言葉は、「何故、それが出来なかったのか?」、逆に言えば、「何故、それが出来るようになったか?」という問いかけを封殺します。結果として、「どのようにすればよいのか」という教育上検討しなければならない課題を先送りにしてしまいます。

 そのため、院生さんとの議論の中で「発達」という言葉が出たときは、次のように言います。

 「確かに、発達が関係するかもしれないよ。でも、発達が関係すると考えて何が生まれるの?きっと何も生まれないんじゃないかな~。どんな年齢の子どもでも出来る、どんなタイプ子どもでも出来る、そう信じてみるほうが実り多いと思うよ。」