■ [ゼミ]おっさんになって良かったこと
理論物理学では優秀/優秀でないというのがはっきり出ます。なんとなれば、正しい/正しくないが人の個人的な価値観に左右されません。その世界の人が100人いれば、時間はある程度かかりますが、最終的にどちらが正しいかという判断は、100人一致することが基本的です。 そのため、大学において一番偉いのは「助手」で「教授」ではないそうです。なんとなれば、頭脳が一番働くのはその時期で、理論物理学の偉大な発見は、その年代で発見されます。さらに、理論物理学の進歩は早いですから、数年もたてば時代遅れとなります。従って、かっては優秀であった教授、助教授も、助手時代から年数がたっていますので、その時の最先端が分からないということになります。従って、へたに「助手」に逆らうと、満座の中で自分の無能さを攻撃されることになります。そのため、教授、助教授も優秀な助手には最大限の敬意と配慮を払うそうです。
教育の世界は、理論物理学とは違います。しかし、それに近いものがあります。最近、ある理由があって自分自身の過去の論文を読み直す必要がありました。その際、自分の論文でありながら、読むのが大変でした。当時の研究は認知心理学の手法を使った論文が主でした。その際、複雑な研究手法で調査しているため、その流れを読みとるのは困難でした。我ながら、当時の自分は、「こんな複雑な方法を開発できたな~」と感心します。おそらく、老化に伴って込み入った方法を考えることが不得手になったんだと思います。あきらかに、助手時代の私より「バカ」になってきました。しかし、年を取り、経験を経ることによって得ることもあります。何よりも、指導する院生さんに対して「大丈夫!」と力強く言えることです。
色々な研究手法で、多数の研究を行いました。また、人の研究を見る機会も多いです。そのため、「研究がものになるか/ならぬか」、また、「どのあたりが研究のポイントとなるか」が何となく分かります。また、実際に当たるようになります。この感覚は、「これこれだから」とは説明できないのですが、はっきりと判断できます。しかし、もう一つの利点も大きいと思います。
若い頃は、自分自身の生き残りでアップアップです。学内・学会的にも力は弱いものです。院生さんの研究が成るか成らぬかは、その院生さんにとって重大事です。従って、丁半ばくちは出来ません。ある程度、結果が予想され、安全だと思う方向で指導します。ところが、研究生活20年ともなれば、ある程度は院生さんを守れるようになります。そうなれば、多少の丁半ばくちであっても、「最後は自分がその研究の意義を他の先生方に説得すればよい」と覚悟もつきます。結果として、研究室の研究の方向が多様になり、大胆になることが出来ます。