■ [大事なこと]暫定版クラス開き案
Iさんから、実践研究でクラスにはいるときの、最初に話すことは何か、ということの相談をメールで受けました。返信を書いているうちに、これはオープンにすべきだと思い、このメモを書きました。下記は、今の私の案です。しかし、あくまでも暫定版です。色々な意見を流しながら、よりよいものを作りましょう。ただし、下記は今までの諸先輩の作り上げた成果に基づくものです。したがって、今後の研究の進化によって大幅に変わりうる可能性は高いです。その意味でも暫定版です。
まず最初に言わなければならないのは、教科学習の意味です。これに関しては「学び合う教室」の第一章のあたりの話を、それぞれの経験に読み替えながら話してはいかがでしょうか?その中で、教科学習の目的は、その教材を通して情報を伝え合い、互いに学びあうことであることを語ります。この部分は省略しがちですが、とても大事なことだと思います。
次に、そのような教科学習において、やるべきものは何かということです。その際注意があります。教師は、「これこれのように話しなさい」、「これこれのように聞きなさい」と指導しがちです。しかし、本質的には不必要に思います。例外は小学校低学年です(古田さんの研究による)。それ以外は、自己モニターをすればいいと思います。つまり、子どもたちの話し合いを自分たちで記録させ、それを聞き直させる。その際、「良い、悪い」をけっして言わない、という方法です。
次に、そのような教科学習において、教師はどのような役割を果たすか、ということです。具体的には、「教師に聞く前に自分たちで考えろ」、そして、「自分たちで考えたことを自分(教師)は信頼している」ということです。
次に、その単元の目標です。これは、最初に述べた「教科学習の目標」ではなく、その教材の目標です。その教材が学べたら、どんなことが出来、分かるのかを具体的に示す必要があります。
次に、その単元における境界条件です。つまり、やって悪いことです。このルールは少なければ、少ないほどいい。もし、「教科学習の目標」と「単元の目標」が正しく伝わっているなら、不必要であると思います。ただし、我々の子ども観、授業観を共有していない先生方が学校の殆どであるという現状において、いらざる軋轢(あつれき)を避けるために付加的に必要になるかもしれません。多くの場合は、子どもたちは自分たちで正しい判断をします。もし、問題が起こったときには、「それが、君の考える素晴らしい人の姿なの?」とか、「そのことで単元の目標はたっせられる?」と問いかけるだけで気づきます。
もちろん、以上の言葉が重要なのではなく、子ども観、授業観です。以上のように語っても、心がなければ子どもは見透かします。以上のように語らなくても、心があれば子どもはくみ取ります。しかし、以上のように語れば、より短期間に子どもは教師の心を理解してくれると思います。それではどんなことを教師は注意しなければならないでしょうか?
一番重要なのは、子どもを信じることです。具体的には、教えたがりの自分を押さえる。教えるというのは親切心もありますが、子どもの能力を信じられないこと原因があります。信じてもらえなければ、子どもはその能力を発揮せずに、依存的になります。
■ [大事なこと]暫定版クラス開き案2
「暫定版クラス開き案」のメモはちょっと抽象的かもしれません。私が何をしているかということを書くことが、少なくとも西川研究室の現メンバーにとって分かりやすい方法だと思います。
つまり、何が大事にしていているかということです。そのために、語り合いことが大事です。また、その文化を共有しているコミュニティ(具体的には西川研究室のメンバー)と、適切な教材(具体的には先輩の修士論文と西川研究室の本)を提供します。現場においては、上級生と上級生の昨年の成果がそれにあたります。現メンバーならば、この文化を共有する段階の重要性と、その大変さはよく分かりますよね。だから、クラス開きにおいては、この部分を決して省略してはならないと思います。
2.聞いても答えない
私が院生さんに聞かれた場合、その対応は以下の通りです。
「あなたはどう思うの?」→「だったら、それでやったら?」
「そんなこと僕に聞いても分からないよ、だって小学校(中学校)で教えるということではプロはあたなでしょ」
「それを僕よりよく分かっている人がいるでしょ、誰だと思う?」
「そのことだったら○○という本に書いてあるよ」
最終的には、依存的な質問は減少しますし、仮にあった場合も、「何で僕に聞くの?」の一言ですみます。
もちろん、ちゃんと話し合わなければならないことも少なくありません(特に最初の2、3ヶ月)が、実際は一般に思われるより極めて少ないのが実情です。授業の中期以降においても、ごちゃごちゃ話さなければならないならば、それは「1」の部分が不十分であったことを意味します。または「6」での信頼する気持ちが不十分なんです。
3.感激する
これは至極簡単です。素晴らしい結果を、院生さんはどんどん教えてくれるんですから。
4.可視化する
他のメンバーの成果を、全メンバーに見やすくする。また、一人のメンバーに対して語るべき内容を、全メンバーに公開する。具体的には、このメモです。現場でいったら、学級通信などがそれに当たるでしょう。でも、そんな面倒くさいことしなくても、メンバーを物理的に同じ部屋にいれるようにして、たち歩きを認めれば、それで十分です。
5.注意を喚起する
「○○さんの研究は、多くの先生方に示唆を与え、それによって多くの子どもたちを救うことに繋がると、私は信じているよ」
「そのこと現任校の同僚に話して分かってもらえる?」
以上のように他者との関係で注意を喚起します。
6.信頼する
仮に自分の考え方とは異なった方向であったとしても、最終的には院生さんの判断を信じる。もちろん、私なりの意見を言います。でも、「最終的には、あなたが判断してください。それを信じます。」と言います。これは教師としての私の苦い経験に基づくものです。私の意見をよく聞いて、それでも拘(こだわ)る場合は、最終的には院生さんの意見の方が正しいという結果になっています。教師としてプロであるという特殊性もありますが、その問題を一番一生懸命に考えているのは本人であるということに原因があると思います。したがって、これは小学生であっても成り立つことだと思います。
7.自分に問いかける
自信の行動が、自身が標榜している子ども観・授業観に矛盾を起こしていないかをチェックすることは大事です。標榜していることと、行っていることが一致していないは教師の常態です。行っているレベルのみしか語れないなら、進歩がありません。教師自身の目標を子どもと共有することによって、子どもとともに成長できます。でも、自身の未熟さを反省することは必須です。私は「本当はいけないことなんだけど・・」という前置きをしながら、自身が標榜している子ども観、授業観に反する行動をすることがあります。そのことはKoさんから、はっきりとからかわれますし、他のメンバーからも失笑をかいます。でも、「いけないことなんだよ」と自己モニターしているだけ、まし、と思って許してね。
以上書いてみると、クラス開きにおいて語ることは「1」に当たります。でも、それ以上に重要なのは、それ以降の日頃の言動ですね。
追伸 Iさんへ。これ及び前メモをもって返信とさせてください。自己モニターを成功させるか、否かと同じ理由で、クラス開きの超具体例を書くことはやめます。何を目指しているかを共感してもらえれば、あとはIさんが、その場、その場で判断できることですから。
追伸2 もしかしたら、「僕に聞かれてもわかんないよ~、小学校のプロはIさんなんだから、Iさんの思った通りでいいんじゃない」と、何も書かない方がいいのではと、書き終わってから不安になっています。しかし、西川研究室としては実質3ヶ月ということで、この程度は必要かなと思い、やっぱりアップすることにしました。10月頃には「わからないよ~」を連発していると思いますよ。