■ [大事なこと]教えるべきもの
学会の後、院生さんたちと飲み会をしました。その時、今年の3月で修了されたKiさんと久しぶりに話すことが出来ました。現場で戻られてからの実践の成果を、生き生きと話してくれました。その際、「私が目指しているのは西川研での実践ではなく、それと現状の現場の実践の中間をやりたい」とおっしゃっていました。さもありなんと聞きました。
Kiさんとは大学院の2年間に色々と議論しました。その中で、どうしても一致しなかったのは、「教師が教えるべきか?」という点です。私としては、教師の教える量はなるべく少なくすべきだという立場で議論をふっかけます。Kiさんはニヤニヤして聞いていますが、私が語り終わると、「でも先生」と、教師が教えるべきものは少なくないという立場で話されます。この繰り返しとなります。ただし、補足しなければなりません。Kiさんは、西川研に所属される以前から、我々が目指している子ども同士の学び合いを活性化される指導実践を、ご自身の経験から作り上げている方です。さらに、修士論文では、教師の教えたいという気持ちを封じる「ローテーション法」という方法を開発された方です。したがって、私が主張していることは百も承知、二百も合点なんです。そんなKiさんがおっしゃているんだから正しいに決まっています。私も「教師が教えるべきものはある」ことは了解できます。それではどうして一致できないかというと、うまい表現方法がないんです。
Kiさんは、「教師が教えないべきだ」と表現すると、放任に走る先生がいますよ警告してくれます。それは了解できます。でも、「教師が教えるべきものがある」と表現すると、現状通りのガリガリの教え込みに解釈する人は少なくないと思います。そこでKiさんに、「教えるべきものと教えないべきものの違いは何?」と聞きました。Kiさんは現場経験に根ざした、極めて興味ある指針を話してくれました。でも、その表現でもガリガリの教え込みに解釈する人はいるな~とも思います。
Kiさんの実践は素晴らしいもので、妥当なものだと思います。でも、Kiさんという教師だから理解できる部分が多いと思います。Kiさんは現場において若い先生方に、私に語ってくれた指針を伝える経験を重ねることでしょう。しかし、誤解する先生も多いと思われます。そうすると、Kiさんは表現を変えたり、補足説明をされると思います。その繰り返しの中で、よりよい指針を形成されることと思います。つまり、「教師の教えるべきものはある」という作業仮説の基に発展されると思います。とても楽しみです。
私の方としては、「教師の教えは限りなく小さく、理想的には0」というKiさんからは一笑に付される目標に向かって邁進します。今後とも、多くの学生さん、院生さんと共に、その方向で研究を進めたいと思います。しかし、その度ごとに「ここは教えなければ」という部分が現れると思います。その場合は、別な方向から攻めていきます。結果として「ここは教えなければ」という領域は、相対的に小さくなると思います。しかし、何度やっても超えられない部分があるかもしれません(きっとあるでしょう)。それが「教師の教えるべきところ」なんだと思います。つまり、「教師の教えは限りなく小さく、理想的には0」という作業仮説を立てることによって、教えるべきことと教えないべきことの基準を明らかにしたいと思います。
現状では、Kiさんのような分かった先生が、それでも教えるべきだと考えるものは教えるべきだ、としか表現できません。