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2002-09-11

[]別な受験戦争 22:14 別な受験戦争 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 別な受験戦争 - 西川純のメモ 別な受験戦争 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 仮に大学入試という状況が変わらないという状況が続くと仮定します(私自身は、この仮定も否定したいのですが、今はその仮定をおきます)。その中で、高校において「教師が教える」が崩壊したらどうなるかということを考えてみたら、面白い状態になることに気づきました。

 なぜ、良い高校(あくまでも受験に関して、以下同じ)に行くかと言えば、良い大学に行けるからです(多くの人はそうですよね)。なぜ、良い大学にいけるかと言えば、良い授業を聞けるからです。でも、本当に良い授業があるとしたら、それをビデオ化すればいいことです。ビデオでは相互作用がないという反論がきそうです。でも、その人に問いたい、あなたの授業において相互作用をしている場面、そんなに多いです?ビデオ以外にも、様々な教材を用意することが可能です。現在は、電子ファイル化の時代です。物理的に、それらを教室におく必要はありません。それらのライブラリーを用意し、高速ネットで結べばよいことです。また、当然、膨大な教材を検索できるソフトも開発されなければなりません。でも、現在技術力は、それは可能です。

 全ての教材を、全ての学校オープンにするならば、問題となるのは、そこにいる教師ではなく、学習者だということです。つまり、教材をともに学び合う仲間としての学習者集団です。多くの人は、賢い人が集まれば、レベルの高い学習がなされると思いがちです。でも、実際には、賢さ(もしくは偏差値)という一つの尺度で、ともに学び合える集団が形成できないのは明らかです。例えば、自分に置き換えてください。一流大学出身者ばかりの教師が集まった学校想像してください。一流大学出身者が集まったから、即、良い学校という図式で理解できます?

 そのような状況が成立したら、その特、重要となるのは、指導者たる教師の集団形成に関する力となります。また、一人一人の教師が生き生きと出来る教師集団を形成できる、校長の集団形成に関する力が問題となります。偏差値という尺度で測れない、一つ一つの多様な学級、学校が、学び合うことによって競い合う受験戦争。同じ受験戦争でも、そのほうが良いよう(本当の意味で)に思います。

[]実るほど・・・ 22:14 実るほど・・・ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 実るほど・・・ - 西川純のメモ 実るほど・・・ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は戸北・西川研究室の方々が教授昇進(本当は昇任だと思いますが)パーティーを開いてくれました。盛大なものでした。花束贈呈、記念品贈呈、楽器演奏(ギターバイオリン)、笑いをとれるスライドショウ、最後は人のトンネル胴上げという内容でした。結婚式二次会という感じで、面白く、和やかな会でした。そのなかで司会役のOさんが、会の最初に米の話をしてくれました。

曰く、「この会場に到着する途中でたわわに実った稲を見ました」(現在上越は米の実りの季節です)

「その稲をみると、西川先生のようだと思いました」

「稲は八十八の手間をかけて育てると言います」(米という漢字を分解すると八十八にも見えることから)

「私たちも西川先生から八十八の手間をかけて頂いているんだと思いました」

 その話を聞きながら私は思いました。「Oさん。稲が八十八の手間をかけるのではなく、八十八の手間がかかるんだよ。つまり、私が稲だったら、私が八十八の手間をかけるのではなく。私が八十八の手間をかけられているんだよ。」

 でも、意図的な誤りなのかもしれません(いや、きっとそうだ!)。歴代の戸北・西川研究室関係者の八十八の手間によって、私が教授になれました。さしずめ、昨日のパーティーは八十九番目の手間なのかもしれません。そうすると、あと十一手間で百手間となります。また、あと十九手間で煩悩の数である百八手間となります。八十八手間で教授になったとしたら、そのころにはどうなるのでしょうか?学長かな、文部科学大臣かな、いやいや総理大臣かな。でも、そのような役職は、私にとって最も重要な「家族仲良く健康に」に反する結果を将来する危険性があります。昔から、「坊主教授は3日たてはやめられない」と言われます。それほど割の良い職ならば、「家族仲良く健康教授」でありつづけることが目標です。

[]言葉はきついけど 22:15 言葉はきついけど - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 言葉はきついけど - 西川純のメモ 言葉はきついけど - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の会で、花束贈呈はHさんでした。その際、初耳の面白い話を聞かせてくれました。

 Hさんが学会横浜)に参加されたとき、初対面の高知学校先生に、「西川先生はどんな人ですか」と聞かれたそうです。その先生学び合いに興味を持たれ、うちのホームページを見ておられる方だそうです。Hさんが西川研究室メンバーだと知って、西川の実態を知るため、質問したそうです。それに対するHさんの答えは、「言葉はきついけど、熱い人です」とのことでした。その話を聞いて、「ふーむ」と思ってしまいました。おそらく、Hさんは、その後に補足説明をされたと思われます。しかし、「言葉はきついけど」という言葉を聞いた西川研究室所属以外の人は、誤解が生じると思うので、私自身も弁明します。

 私は、からかうことはよくしますが、怒ったり、叱ったりしません。

 メンバーは期限に追われると言われます。でも、基本的には期限を決める際は、「いつ出来る?」と聞いて、それにご本人が答えた期日が期限となります。私が期限を「○○までにやってね」と私が期限を切る場合も、ご本人が「それでは出来ません」と言われたときは、すぐに引き下がります。つまり、ご本人が設定したか、承諾された期日しか設けていないはずです。

 メンバーが一番おそれている私の言葉は「期待しているよ」という言葉です。でも、それって、きつい言葉だと思います?つまり、「言葉はきついけど」という実態は、上記のようなものです。つまり、私は絶対に「言葉はきつくない」と思っています。それでは何故、私の言葉がきつく感じられるのか?それは、私の言葉ではなく、ご自身の良心が自身をきつく縛っているんです。

 指導教官バカですが、西川研究室メンバー(もちろん学部生も含めて)の研究レベルは最高レベルです。院生さんは色々な学会に参加されますが、皆さん「西川研究室の全体ゼミの方が、発表内容も、そこでなされる議論も学会よりすごい」と言われます。さもありなん、と密かに院生さんの言葉を納得しながら聞いています。その全体ゼミで、各メンバーが高レベル研究成果を発表するのですから、プレッシャーを感じざるを得ません。

 我々の研究室では、山のような(本当に山のようです)テープ記録を視聴し、それを言語化し、分析します。気の遠くなる作業です。おそらく、それを最初に聞いたとき、「そりゃ無理だ!」と思うでしょう。また、そのような作業をしなければならないとしたら、「そんなの絶対に出来るわけありません」と文句を言いたくなります。ところが、それを実際にやっている人がウロウロいるんですから、「出来るわけ無い」なんて言えるわけありません。さらに、その作業の中から、アンケート調査のような従来の方法論では出せない結果がどんどん出ていることを目の当たりにしては、反論の余地がありません。

 と、いうことで、私は全く言葉をきつくしなくても、周りの状況の中で、ご自身の良心が、ご自身を縛るわけです。私としては、「いつ出来るの?」とか「期待しているよ」という言葉で、ご自身の良心に問いかけているだけです。だから、正確に言えば、「西川先生は、いつもニコニコして優しい先生なんです。でも、西川研究室は大変な作業をやらざるをえない状況になる研究室です。」と表現すべきのように感じます。でも、もう一言、「でも、その作業に見合った、いや、それ以上の成果を出せる研究室です」と言って欲しいな~。

追伸 お昼休みに、Mさんを「からかい」ました。具体的には以下の通りです。

私:「昨日の二次会はどこでやったの?」

Koさん:「大学に帰って、4階のゼミ室で学部生と飲みました。12時ぐらいまで飲んだかな~」

Mさん:「俺、あの後、研究したんだよ」

Koさん:「エ~(ちょっと、尊敬の響き)」

私:「そんな夜中にまでやらなきゃならない状態だからじゃない?」

Mさん:「いや、寝る前に研究しないと、眠れない体質になってしまったんですよ」

私:「それって、昼間は何もしていないからじゃない?」

Mさん:「先生ホームページで「言葉はきつくない」って書いているけど~・・・」

      (間)

Mさん:「結局、本当のことを言われているから、きつく感じるんだよね」(一人で納得)

[]幸せ22:15 幸せ者 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 幸せ者 - 西川純のメモ 幸せ者 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は、理科系学部から教育大学院に進学しました。最初に教育系の論文や本を読んで愕然としました。数学物理の本を読み慣れている当時の私から見れば、教育論文論理は穴だらけ、飛躍だらけでした。そうかと思うと、「探求」と「探究」の違いは何かを、延々と議論する訓古学のような論文もあります。最も多いのは、「教育は愛である」のような毒にも、薬にもならない文章をだらだら書いてあるものです。同じ理科系から進学した同級生と、「こんなこと勉強して、また、研究して、何か意味あるのかな?」と話しました。とても、一生をかける、それどころか2年間(修士課程)を賭ける価値があるとは思えませんでした。しかし、今は違います。

 本日、Mさんと個人ゼミをしました。内容は子どもたちに任せたときに、子どもたちが教師の思いもつかない方向に発展させるという内容です。聞いているうちに、感激のあまりウルウルしてしまいました。聞いているうちに、「子どもって、本当に凄いな~」と感激しました。そのうち涙が止まらなくなってしまいました。とてもMさんに見せられる顔ではないので、Mさんに背を向け、机のコンピュータ画面を見ながら気持ちを落ち着けました。

 不遜ながら思います。いったい日本教育研究者の中で、自らの研究室教育研究の成果に感激し、涙を流せる人がいるだろうか?決して私一人ではないとは思います。しかし、私には妙な確信があります。私ほど頻繁に感激できる人が日本に(いや、世界に、えーいついでだ、大宇宙に)いるだろうか、いやいない、と不遜ながら思います。幸せ者だな~と思います。