■ [ゼミ]昨日の全体ゼミ
昨日の全体ゼミは年間で1度あるか、無いかの全体ゼミです。記憶によれば、昨年度は無かったと思われます。どんな全体ゼミかと言えば、私が場の設定者という立場を離れて、完全に参加者になってしまいました。結果として「興奮して」議論をしてしまいました。なんで私が興奮したのかを自己分析しました。
我々の研究室では、子どもが有能であるという子ども観、教師は場の設定者であるべきであるという授業観(より具体的には学び合い)を多くの教師に共感してもらいたいと表います。そのため、そのような子ども観、授業観におけるクラスの様子を詳細に記録することによって、その素晴らしさを明らかにしています。しかし、多くの教師に共感してもらうためには、それだけでは不十分です。私自身もいろいろなところで講演します。そこでよくある反応の一つは、「たしかに、結構だと思います。でも成績は?」という反応です。我々の研究の多くは、「成績」以外のすばらしい面を明らかにしています。でも、世の中には、「そうは言っても成績が第一」とお考えの方も少なくありません。そのような教師に納得してもらい、その教師のクラスの子どもたちを救うには、「成績面でも大丈夫です」と保証しなければなりません。もちろん、今までの研究でも成績を調査した研究は少なくありません。それらの結果は、いずれも「下がることはない」、「思考力に関してはあがる」という結果を出しております。しかし、今までの研究は成績に主たる関心があるのではなく、成績以外の様々な側面(特に見逃されている側面)に着目する研究でした。
昨日の発表はIさんです。Iさんと個人ゼミで何度も話し合いました。その際、「あなたが一番したいことは何ですか?」と聞きました。それに対して、Iさんは「学び合いの素晴らしさを、より多くの普通の先生方に分かって欲しい」とのことでした。そこで、「分かってもらうために、何が一番障害になっていると思いますか?」と聞きました。その結果、「時間がかかり、成績が下がると思っている人が少なくない」とのことでした。そこで、「そうじゃないんだよ」という研究をしようと決まった次第です。
全体ゼミでIさんが成績に着目する研究することを発表すると、「何でそんなことに着目するの?」という雰囲気になりました。何故、そうなるかといえば、メンバーは等しく、成績を上げるために学び合いをやっている分けではないためです。学び合うことによって生じる、さまざまな素晴らしい面に着目し、学び合いを取り入れようとしています。だから、「たかが成績なんて」という雰囲気です。各メンバーから出る質問・意見は、ある意味で心地よく、頼もしい発言ばかりでした。学び合いの素晴らしさを、成績以外の面でとらえていることを、ご自身の言葉で語っていることに嬉しく思います。でも、聞いているうちに、「でも分かって」という気持ちがむくむく沸いてしまいました。つまり、「成績に拘っている先生には、数十人、数百人の教え子がいる。そのこをガリガリの今の状態から救うには、その成績に拘っている先生を納得しなければならない。そのためには、その先生の土俵で語らなければならないんだ!分かってあげて!」ということです。
学び合いを分かりたくない先生も多いと思います。その先生の場合、同じ土俵に登っても、屁理屈、小理屈を作り上げ、否定するでしょう。だって、「受験」で考えた方が楽ですから。でも、「学び合いは大事だ、やりたい」と思っているが、「成績、受験はどうなの!」という外圧にさらされて苦慮している先生も少なくないと思います。その先生方に、議論の武器になるデータを出せば、その先生方も安心して取り組めます。その先生の一人一人の後ろには、何十人、何百人の教え子がいるんです。
実は、「分かりたくない先生」を分からせる方法が一つあります。それは、「みんながやっている」という圧力です。決して日本中の先生方の殆どを説得する必要はありません。「学び合い」は大事だ、ということを自信を持って実践できる先生方が、日本の10%(最大30%)もいれば、実感としては「みんながやっている」という感覚を与えることが出来ます。迂遠ですが、希望を持っています。
■ [発見]学び合う職員室
本日はゼミ学部学生が教育実習でお世話になっている小学校(上越市高志小学校)に挨拶に参りました。忙しい学校現場を考えて、名刺を机において退散するつもりでした。ところが、廊下で校長とばったり会い話し込んでしまいました。話が近々(10月9日)にある研究会(文部省指定)の話になりました。その際、校長からA4版1枚の研究会通信(研究会の準備会用)を見せてもらいました。最初は、何気なく見ていたのですが、「エ!?」と思いました。その資料によれば、研究会のための職員会議の運営の仕方が学び合いそのものなんです。
研究会のために先生方が会議をする場面を、職業柄何度も見たことがあります。たいていの場合、校長が挨拶し、その後、研究主任が長々と話します。その後、学年部会、教科部会・・の代表が発表するという形式です。ところが、その研究会通信によれば、そのような進行ではないようです。その資料によれば、先生方がランダムに5つ程度のグループに分かれ、別々な場所で20分間話し合います。その後、別な組み合わせでグループを形成し、別々な場所で20分間話し合います。最終的に集まって、ひとり40秒(それ以上は駄目だそうです)で、その日に学んだことを全員が話すそうです。全体で1時間で終わりです。最初は目と耳を疑いました。怖ず怖ずと「そのグループは学年別、教科別に編成するわけではないんですか?」と聞きましたら、「学年ごと教科別でなければ話し合わなければならない理由はないでしょ」とさらりと校長に言われました。また、「全体で話すとき、それまでのグループごとに代表者が発表するのではないのですか?」と伺いましたら、「その方法では、色々な問題があったので今のような形になった」と言われました。「今のようになった」という発言があったので、「では、いつ頃からこういう形式になったんですか」と伺いますと、3年前に研究指定を受けた頃から徐々に変わって、最終的にそうなったとのことでした。
校長としてやったことは何かを伺うと、毎月A4版1枚のレポートを書かせることだそうです。過去に、それ以上の頻度、量を求めたことがあるそうです。そうなると、自分のを書くので精一杯で、人のを見る余裕がないということに気づかれたそうです。その結果、現在の頻度、量に落ち着いたそうです。非常に面白いと思ったのは、普通の校長の場合、成果主義となります。レポートの厚みが成果ととらえがちです。ところが、この校長は、「人を見る」すなわちネットワーク形成が重要だととらえていた点にビックリしました。レポートの内容は、「自分が実践して良かったこと」を書くというものです。注意は定型的な書式に囚われず、イントロ無しで実践を書くようにとのことでした。校長によれば、学校の先生方は決められたテーマに関して、決められた書式に合わせてレポートを書くことは何度も求められています。従って、そのようなレポートは書けます。ところが、何を書いてもOKで書式自由というのは未経験です。結果として、定型的なテーマを、定型的な書式で書く先生は、初期の段階で多かったようです。ところが、この学校のレポートは、他の先生に読まれることを目的としています。実際に読まれているようです。結果として、そのうち数人の先生が、殻を破って自由な実践レポートを書き始めたそうです。その結果、あっというまに、それが広がったそうです。
自由な実践レポートは読んで面白く、また、役に立ちます。読んで面白かった実践があると、そのレポートを書いた先生の所に、どうやったのかを聞きに行く先生方が出ます。結果として、面白い実践が、あっというまに広がります。このような結果、先生方の間にネットワークが形成されることになりました。そうなると、旧来の校長、教頭、研究主任、○○主任・・という形式の会議に不満が生じるようになりました。その結果として、先生方の試行錯誤の結果、今のような形式の会議が行われることになったそうです。
皆さん(特にゼミ生の皆さん)、これを読んで、どう思います。私はビックリしました。まさに、我々がクラスでやっていることを職員集団でやっているんです。私は本の中で、子どもたちの中で成立することは、大人でも成立する、だから、自分の職場に置き換えてください、と書いています。しかし、本当にやっている学校が、それも、身近になったということにビックリしました。
追伸 校長によれば研究会の会議は月に2度(それも上記のように各1時間)だけだそうです。また、文部省の指定を受ければ、毎晩の徹夜になると危惧した先生方に、「五時までで帰りましょう。それ以降までやらなければならない研究はやめましょう。結果として、駄目だったら白旗をあげれば良いんですから」と言ったそうです。校長曰く、「そんな徹夜しなければならない実践は、はやるわけないんですから」。ちなみに、その学校の研究会のコピーは「普通の先生方が、普通の授業時間でやった超研究」です。
お勧めです。ちなみに当日は新潟県教育センターで講演がありますが、終わり次第、急いで帰り参加する予定です。