■ [嬉しい]ポエム
先だって、ある先生から下記のメールをいただきました。手放しの絶賛で気恥ずかしくなります。しかし、よくよむと考えさせられる子どもの姿が美しい文章の中で書かれているので、公開しようと思います。特に「単に間違うことの恐れからくるなどという解釈では物足りない」という部分は、大きくうなずきました。
「学び合う教室」、「学び合いの仕組みと不思議」、「心の教科指導」を拝読しております。
次々と刺激的な文章に出会い、共感と納得に心が沸き立つのを感じます。私は今、教室における子どもの「聞く能力」というものに特に興味を持っています。一般的な教室文化として、子どもたちは、お互いのことばを聞き合うことを放棄してしまっているという現状があるのではないでしょうか。表面的な「聞く態度」を指導されていればいるほど、その傾向が強いと感じます。このことの具体的かつ典型的な現象として、子どもたちの言葉遣いが、授業中の発言やグループ発表などになると、異様に丁寧になったりパターン化することが挙げられます。子どもたちにとって、授業中の言葉は、友達に聞かれることを期待していないものになっている気がしてなりません。おそらくそのような言葉が生まれる授業においては、教師の言葉が最上のものであるという意識が徹底しているということだと思います。ですから、子どもがお互いの言葉に期待が持てず、必要最小限のコミュニケーションで済ませようとする意識の一つの表れが、感情のこもらないよそよそしい敬語なのでしょう。このように考えると、子どもの生気のない、こちらが悲しくなってしまうような言葉は、単に間違うことの恐れからくるなどという解釈では物足りないという気がしてきます。ましてや、聞くという行為にいたっては、集中していないとか、気持ちの切り替えができていないとか、聞く姿勢が悪いなどという叱責では、全く解決できない根深い問題であるはずです。にもかかわらず、教師はそのことに無頓着すぎるように思われます。聞くことが大切という主張はしても、聞かない子どもをつくっているのは、他ならぬ教師自身の責任であるという自覚に至らないようなのです。友達の発言が聞こえなくても実は一向に構わない。教師が、「聞こえなかったら聞こえませんと言いなさい」と命じるので、音量の問題のみの範囲で「聞こえません」を連発する教室。私は、このような教室が一つでも減ってほしいと、切に願います。子どものあの訥々とした話しぶり、飛躍し、迷い、混乱する論理。(勿論、それは深い感動を与えてくれます。)それを受けとめ自分のものにする能力は子どもの方が遥かに上である、という思いに至りました。それはまさに、「学び合う教室」の「学習者自身がすでにもっている能力を、学校においても適用できると感じさせればいいと思っている。」という一文を始めとする「教師は教えることが下手だ」という発想に出会ったからです。子どもが自由な遊びの中で発揮するコミュニケーションの体系を、授業の中につくり上げることができたら、と強く願います。最初の数ページを拝読しただけでも、いろいろな思いが巡り、授業への反省と憧れがますます深まっていくのを感じます。本当にありがとうございます。』
実に美しい文章です。これを読みながら、思い出しました。現場に戻り実践研究によって「学び合い」のすごさに気づかれた院生さんが、その感激をメールしてくれるとき、上記のようなメール用のような響きを持っています。きっと、子どもたちの学び合いは、教師を詩人にするのかもしれません。逆に、詩人の素養がないと、子どもたちの学び合いを、素直に見取ることが出来ないのかもしれません。
■ [発見]人の縁
昨日は新潟県センターで講演をしました。担当の指導主事のFさんは私の大学院の4代下の後輩です。4代下ですので、修士課程では直接一緒ではありません。しかし、私が大学時代・大学院時代に二日に1度は飲みに行っていた飲み屋でアルバイトしていたので知っています。その指導主事から、Tさんに合いましたよと言われました。Tさんは私の大学院の2代下の後輩で、高校の教員をしていました。本年度から教科調査官として文部省入りをした人です。私は研究生を1年していたためTさんとは机を並べました。その人のことで色々話しました。Tさんは生物教育に関する講習会の講師として出席し、そこに全国のセンター指導主事が集まったそうです。その会の移動の際、バスに乗ったそうです。その際、たまたま隣に座ったのがN県のセンター指導主事のEさんです。最近、Eさんから講演の依頼がありました。そこでFさんからEさんの話を聞きました。なんと狭い世界だな、と思っていたら、FさんからそういえばS県のMさんにも合いました、と言われたからビックリしました。Mさんは上越教育大学大学院OBで、S県のセンター指導主事です。Mさんからのエピソードを本に使わせてもらったので、謝辞に載せています。Fさんは、私の本を読んでいて(謝辞も)、その中のちょっと変わった苗字なので記憶が残っていたそうです。そういえば、Mさんの専門も生物です。
講演を終わって、直ちに上越にとんぼ返りです。現在、うちの学部学生は教育実習です。その研究授業があるので、その参観のため急いで帰った次第です。その学部学生の指導教諭の方には7年前にお会いしました。その先生の教育実践を観察したことがきっかけで「学び合い」研究に突入したようなものです。ちなみに、その先生のことは「学び合う教室」、「学び合いの仕組みと不思議」に紹介しています。教室に入り、その先生に「うちのゼミ生がお世話になっております」とお礼を言いますと、「先生、M幼稚園で講演したでしょう」と言われ、ビックリしました。たしかに昨年、M幼稚園の父母の会から頼まれて、父母の前で講演をしました。その先生によると、その先生のお子様はM幼稚園に昨年までいたそうです。その関係で、その先生のお母さん(つまり子どもにとってはおばあちゃん)が、私の講演を聴いたそうです。帰宅して、その先生に、「上越教育大学の西川先生の話はとってもよかった」と話したそうです。その先生はビックリして、「その先生、よく知っている先生だよ」と言ったそうです。