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2003-03-12

[]分からないこと 16:57 分からないこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 分からないこと - 西川純のメモ 分からないこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学習効果のない指導教官です。先週に加えて、今週も全体ゼミ遅刻してしまいました。しかし、先週と同様につつがなく進行しておりました。

 ゼミでは色々と話題が出ました。その中で、心にひっかかって、私自身も自信を持っていないで悩んでいることがあります。それは、「学びあうこと自体」を目標とすべきか?ということです。ゼミでの議論では、目標となり得ない、もしくは、すべきではない、という意見が多かったように思います。「一言」言いたかったんですが、考えているうちに発言する機会を逸しました。この問題は、少なくとも1年以上前から宙ぶらりんの問題です。

 目標となり得ない、という理由としては、第一に教師がそのように思っても、子どもは別の目標を持っているというものがありました。第二に、それを目標とした場合、そのことが変質してしまう危険性があるからです。例えば、協力することを強いた場合、「おまえが遅いから、おれたち全部が迷惑しているんだ!」という遅い子を責める危険性があります。いずれも、なるほど、と思います。でも、自信はないですが、今のところは「目標にすべきだ」というのが私自身の考えです。

 たしかに教師が「学びあうこと」を目標にしたとしても、子どもが学びあうことを目標にするとは限りません。しかし、逆に言えば、教師が学びあうことを目標としなくても、学び会うことを目標としている子どもは少なくありません。別の調査に依れば、それは半数ぐらいであることが分かっています。少なくとも、教師が教科目標目標として掲げたとしても、それを目標とする子どもはそんなに多くありません。簡単に表現すれば、「微分の学びたいと思っている子どもと、数学の時間をみんなと仲良くやりたいと思っている子どもの数はどちらが多いでしょうか?」、「酸素の発生を実験したい子どもと、みんなと一緒に実験したい子どもの数はどちらが多いでしょうか?」という問いに置き換えることが出来ます。つまり、教師が目標としなくても、子どもが自らの目標としているなら、教師が授業の目標として掲げれば、それはそれでいいでしょ、ということです。

 しかし、「学びあうこと」を目標としていない子どもがいることは確かです。もし、教師が「学びあうこと」を目標として、それを強いた場合、ゼミ生の方々が危惧される事態が生じることは確かです。しかし、そのような問題が生じる原因は、「学びあうこと」を目標とすることに由来するのではなく、「学びあうこと」を強いることに由来すると思います。そして、その背景には、子どもの有能さを信じ切れない教師の弱さ(私にもあります)があると思います。教師は「学び合え」と強いるのではなく、「学び合うことは大切なことだよ」と本気で信じれば良いのだと思います。そして、学び合える場を作ると同時に、学び合わなくても生きられる場を作ることだと思います。

 以上は、「学びあること」を目標とすることのデメリットとしてあげられた理由は、決定的な理由ではない、という私なりの考えです。また、私は「学び合うこと」は人間の本性だと信じています。それゆえ教師がゴチャゴチャ言わなくても、結局、圧倒的大多数の子どもは「学び合う」と信じています。それでは、何故、私は「学び合うこと自体」を目標として掲げるべきだと私が考えているのか?それには理由があります。第一に、現在学校教育は「学び合うな!」という場が形成されています。ゴチャゴチャ言わなくても、教師が邪魔しなければ3ヶ月程度で子どもたちは学び合います。しかし、明確に「学び合う」ことを目標として掲げれば、2週間程度で学び合うことが出来ます。つまり2ヶ月半のロスを避けることが出来ます。学び合いの文化は、担当する教師の子ども観・授業観に強く影響を受けます。もし、1年ごとに教科担任が替わる可能性がある中学校の場合、1年間(実質は9ヶ月)の中で2ヶ月半は大きいと思います。

 しかし、私が「目標に掲げるべきだ」と拘っているのは、私の定時制高校での教師経験にあります。そこでは、子どもたちに「何故、学ぶのか?」という説明をしなければ授業が成立し得ません。「先生、なんでこれ勉強するの?」という質問に答え、納得させる必要があります。子どもたちと、いっぱい議論しました。その結果として得た結論は、「教科の目標」(正確には教科の内容)で納得させるのは不可能だということです。結局、人としての有り様を語り合うことによって人間関係を形成し、その場として理科という授業がある、そのような状態の中で納得させるしかありませんでした。そのような人間としての有り様とは何か?、それを一言でうまく表現する方法がありませんでした。しかし、学び合い研究する中で、「学校教育とはコミュニケーションを学ぶところだ」と今は納得しています。そして各教科とは、それを達成する多様な題材であると考えています。だとしたら、「教科の目標」を個々の具体的な内容に限定して、本来の教科の目標を語らない方が異常に感じます。

 しかし、おそらく大多数のクラスにおいては、いわゆる「教科の目標」だけを語って成り立つクラス(少なくとも大多数は黙って座っているクラス)なのですから、その場合は、大上段に「学び合うこと」を目標に掲げずとも、それが大事だと教師の心の中に秘めていればいいのかもしれません?しかし、その場合であっても引っかかるものがあります。それは、それでは「学校教育目標」とは何と考えているのか?それとの関係で「教科の目標」は何と考えているのか?私にはかなりの確信を持って、「教科の内容で学校教育目標を語ることが出来ない」と思っています。もし、私のように「学校教育とはコミュニケーションを学ぶところだ」と考えるならば、何故、それを子どもたちに秘密にする必要があるのか?

 以上は、人を説得するのではなく、自分を納得させるための文章です。でも、不安な部分があるものの、信じたいと願っています。そう、「目標として掲げたい」と願っている、というのが私の本心なんだと思います。

追伸 本日修士2年の方にとっては、最後の全体ゼミです。2年間ご苦労様でした。とても多くのものを教えていただきました。有り難うございました。