■ [ゼミ]研究
最近、うちらの研究室は、どんな風に見られているのかな~・・と思って、身近な人やOBの人に聞いてみました。率直に教えて貰い、驚き、私自身の筆足らずの点が多いな~と思いました。そこで、ちょっとメモろうと思います。きっと、この部分は、この次か、次の次の本の一部になると思います。
我々は、子どもに着目し、教材(最近の言葉だとコンテンツ)にこだわりません。私自身は、何故、現職の方が大学院で教材の研究をするのか理解出来ません。2年間苦労して開発して、その教材を現場で生かす場面って、いったいどれだけあるんでしょうか?もちろん、そのような教材開発を通して、教材開発の能力を得る、という理由付けも出来ます。でも、現場に戻って教材開発に携わる機会って、何回あるのでしょうか?我々は、子どもに着目し、子ども観・授業観を磨きます。どんな授業であっても、子どもを見ることは常に必要です。
また、我々の研究は、子どもをパターン化し、子どもを集団としてみている、と考え、もっと一人一人の子どもに寄り添うべきだ、という意見もあります。この意見の方が、共感できます。おそらく、現場実践の中で、子どもを一纏めにしたという自責の念と、そのような指導に限界を感じた良心的な先生の気持ちだと思います。でも、そのような先生方に、私は問いたい。もし、一人一人の子どもに寄り添って、その子どもを理解する能力が得られたとしたら(私はそう簡単ではないと思いますが・・)、問題を解決できるでしょうか?クラスには30人以上の子どもがいます。その子ども全員に寄り添うことは物理的に不可能なことです。ということは、クラスの特定の子どもに寄り添うことになります。でも、目立って問題のある子ばかりに問題があるのではなく、その他の子どもにも問題があります。目立たない子どもの中に、緊急の問題があることもあります。さらに、ある特定の子どもに寄り添えば、相対的に他の子どもから離れることとなります。クラスから逃げ出す子どもをどこまでも追っていく教師は、一見良心的に見えます。ところが、その教師が教室にいないために、呆然とする子どもが30人いることを忘れているのではないでしょうか?
一人一人の子どもに寄り添っていこうという教師の中には、「教師がやらねば何も起こらない」という「教師対子ども」という囚われがあると思います。私は断言したい、「子ども一人一人を救うのは、子ども一人一人で構成される集団だ」と。「教師1人では救うことは出来ないが、クラス全員では救うことが出来る」と。教師の仕事は、一人一人の子どもを理解することではなく、一人一人の子どもが活動しやすい場を作ることだと。そのためには、教師が一人一人に寄り添うことは、良いことではなく、障害になりうるということを。
そのため、我々は子どもを徹底的に観察しますが、「太郎」、「花子」のレベルまで個別的な分析はいたしません。本にも書きましたが、そのレベルのことを知ったとしても、教師は何も出来ないし、また、すべきではないと思います。ただ、この私のスタンスは、冷たく感じられるかたもおられるでしょう。事実、面と向かって、「現実の子どもたちを目前にいる私には出来ない!」と言われたことがあります。しかし、それは人様から言われるまでもなく、十分承知しています(私の本性はウエットですから)。しかし、そこでウエットになって何が生まれるのでしょうか?結局、自己憐憫のマスターベーションに陥り、改善のない日々を送ることになるでしょう(私の場合は、高校教師時代、毎日1升以上の酒を飲み、バカ野郎、バカ野郎と叫びながら泣いていました)。もしくは、教師の力で「解決し得た」、「解決できる」と誤解できるほどの、傲慢さと無神経さを得るだけのことだと思います(私の場合は、授業がうまくいったと思いこみ、俺はスパー教師だと自己満足することもありました)。
「熱き思い」と「冷静な分析」は共に必要です。私は「冷静な分析」のみで「熱き思い」を忘れた従来の学術研究に戻るつもりはありません。また、「熱き思い」にかられ、それに絡め取られるような研究に行くつもりもありません。「熱き思い」と「冷静な分析」その危なげなバランスを常に保たねばならない、今のスタンスを大事にしたいと思います。即ち、「熱き思い」を持つ教師が、「冷静な分析」に基づき現実を見直し、「熱き思い」で判断する。それが教師に出来ることだと思います。別な言い方をすれば、研究で出来るのは、「熱き思い」を持つ教師に、もう一つの引き出しを用意することぐらいだと。
追伸 Mさんメール有り難う。ちょっと元気になりました。
■ [大事なこと]27禁を越える方法
ある院生さんから、「先生たちの研究は若い先生に影響することは出来ない。」、「先生の書かれているのは、私程度の教師にとっては当たり前のことである」との厳しい指摘をいただきました。まったく、その通りなのだと思います。本にもメモにも書いているように、我々の研究を理解し、誤り無く実践できる先生は、「既に理解し、実践できる先生」か、その直前の先生方なのかもしれません。 私は何度も、色々なところで書いたように、若い先生方が分かりやすくするためノウハウ的に記述することは出来るだけ避けるようにしています。それでは、若い先生方は分からなくても良いのか、といえば違います。若い先生方の中にも、我々が気づいていることを既に気づいておられる方は少なくないと思います。その中には、実践の中で生かしている方もおられると思います。そのような方であれば、我々の本を読んでも誤ることはないように思います。でも、そうでない先生もいます。先の院生さんは、「私にはそのような先生方も分からせることが出来る研究がある」とおっしゃっていました。でも、私は「そんなことが出来るのかしらん」と思っています。では、私はどう思っているかと言えば、「若い先生方を育てるのは、職員集団だ」だと思っています。だから、我々の研究を誤り無く理解できる先生方を増やすことが、結局、若い先生方を育てる方法だと、今は信じています。
我々の研究は「当たり前である」というご指摘は、全くその通りです。しかし、現実に「それに熱烈に反対する先生」もいますし、「それを理解できない先生」もいます。しかし、「当たり前」と感じる先生が少なくないことは確かです。それでは我々の存在意味は何か?と問われれば、実証的なデータによって分析している点です。実証的データによって、「当たり前のこと」を、「当たり前」と思えなかった人に共感してもらえることが出来ます。それが学術研究の存在意味だと思っています。
追伸 上記をご指摘頂いた院生の方のご意見の95%以上は、好意的な意見であり、我々をよく理解して頂いている意見です。とても勉強になりました。二つの意見にしても、その方面にも意識したら良いのではと言う建設的な意見です。ただ、表現上、短くまとめてしまうと「きつい」ものいいのようになってしまいました。全ては、私の舌足らず、筆足らず、不徳の致すところです。