お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2003-09-08

[]立ち歩きの効果 10:27 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生からメールが来ました。その先生は、我々の研究を参考にして立ち歩きを容認しました。その結果として以下の効果があったとメールがありました。

『私との会話が逆に増えた。勉強の事はあまり話さなくなったのですが、世間話をする子どもが増えました。これは意外な結果でした。必要に応じて勝手図書館などに行く子どもが見られるようになった。立ち歩く必要が無くなると自分で勝手に席に戻るようになった。指示するとすぐに座るようになった。』

 さもありなん、と思いました。特に、「私との会話が逆に増えた。」、「指示するとすぐに座るようになった。」は印象的です。

 学び合いを育てるために、教師はある段階では子どもとの接触を断とうとします。それは、教師に依存的な子どもに対して、「君の問題なんだよ、君が解決の仕方を考えるんだよ」と自覚させるためです。そのため、聞かれても「分からないな~」と応えたり、助けを求められても「それは僕の問題ではなく、君の問題だよ」と突き放します。ただし、そうはいっても、それを自分自身で解決するに十分な環境を整えます。具体的には、優れた情報源である他の学習者と学び会える環境を整えます。しかし、ちょっと目には「冷たい教師」に見えるはずです。でも、学習者が教師に依存しなくなり、独立して考え出せるようになれば、突き放す必要はなくなります。そうなると、馬鹿話も自然に出ます。特に、馬鹿話が大好きな私は、その段階になると止めどなく馬鹿話に向かいます。ちなみに、我々の研究室では、毎日、一度はいっしょに昼飯を食べますが、そこで研究の話が出ることは希です、毎日、とめどない馬鹿話に花が咲きます。

 私が定時制高校の教師だったとき、教室は私語の嵐でした。しかし、授業の合間、合間に、「○○に関して、隣の人と相談して」ということを意図的に何度も入れるようになりました。そうすると、「ちょっと聞いて欲しいんだけど」と言うと、しばらくの間はしーんと聞くことが出来るようになりました。黙らせるためには、しゃべらせるんだな~、ということは教師人生のごく初期に得たノウハウの一つです。(当時はノウハウレベルで止まっていましたが・・)

追伸 ○○へ。上記の理由から、お前が俺に依存しようとしている間は、絶対零度の冷たい教師のままでいます。お前がお前の頭で動き、自立して動けるようになったら、つまり、俺以外の情報源を利用出来るようになったら、思いっきり馬鹿話に花が咲きますよ。と書くと、お前は「先生~、じゃあ自立したら、先生と仲良くできるんですね」なんて言いそうだけど、そう言おうと思ってる限りは無理だからね。お前の目標は、俺と仲良くなることではなく、お前の研究をお前が出来るようになることなんだから。(ふ~)

[]志 10:27 志 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 志 - 西川純のメモ 志 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 意外かもしれませんが、研究しない研究者は少なくありません。学生さんの前で「俺は研究者だ!」と偉ぶっている人の中には、研究者でない人は山ほどいます。研究者が他の職業の人と違う点は、学術論文を書いていることです。もう少し説明すると、いわゆる学術論文の中には、レフリーつきとレフリー付きでない論文があります。レフリーつきの論文とは、学会が一定レベルを超えていると認定した複数の研究者(査読者といいます)がその論文を読んで、一定レベルを超えたと認定した論文レフリー付き論文といいます。一方、大学紀要の場合などは、その大学先生であるならば、基本的に掲載されます。極端な話、どんな馬鹿馬鹿しい論文でも掲載されます。そのような論文は、レフリー付きでない論文です。研究者とはレフリー付きの論文を書ける人、もっと具体的に言えば、書いた人を指します。学生院生さんには見えにくいとは思いますが、それなりの情報収集をすれば、それぞれの先生が、どれほどのレフリー付き論文を書いているかは直ぐに分かります。

 レフリー付きの論文を書くことは大変です。学術的な努力も必要ですが、精神的にもタフでなければ書けません。査読者とのやりとりは心を削るような大変さです。そのため、大学人の少なからざる人数が、安直に書けるレフリー付きでない論文に流れてしまいます。しかし、そのような論文を書くならまだいいほうかもしれません。この10年間、ぜんぜん論文を書いていない人もいます。そのような先生学生院生さんに辛く当たっている、ということを聞くと同業として情けなくなります。おそらく、自分でも書けない論文を、人に書かせているんだから矛盾も起こり、結果として、そのしわ寄せが学生院生さんにいくんだろうな、と想像します。

 しかし、レフリー付き論文を書いている人が、ず~っと書いているかと言えば、そうでもありません。一番の転換点は「教授昇任」です。それまでドンドン書いていた人が、教授になったとたんに書かなくなる場合があります。一般的には、「教授になって会議が多くなったから書けなくなったんだ」と理由付けます。しかし、書き続ける人は、頻度がへってもコンスタント論文を書いています。そして、前者後者を比べると、客観的には後者の人の方が公務が忙しい場合が少なくありません。

 先に書いたように論文を書くことは、学術的な努力も必要ですが、精神的にもタフでなければなりません。それでも書くためには、志は必須です。たまたま外国語が得意で、試験に通ったため大学院に入学し、何となく大学教師になったという人の場合、論文を書けません。その結果として、研究者のふりをする非研究者が生まれます。しかし、志と言っても「教授になりたい」という志の場合は、教授になったとたんにタフさを維持する必然性が無くなります。教授になった後でもタフで居続けるためには、「教授になりたい」というレベルを超えた志が必要です。それは、「目の前の学生院生さんの盾になりたい」、「この学生さんの研究を成果としてまとめさせたい」というものがあるでしょう。さらには、「日本を、世界を、少しでも良くしたい」という志もあります。

 自分の中に芽生えている「もお、いいじゃないか」という気持ちにむち打つため、メモりました。