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2003-10-05

[]難しい 22:15 難しい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 難しい - 西川純のメモ 難しい - 西川純のメモ のブックマークコメント

我々の考え方を本当に理解してもらうのは大変です。世の中の殆どの教育書は、「全ての子どもに適用できる教材・指導法」を云々しています。現場の授業研究でも、「全ての子どもに適用できる教材・指導法」が議論されます。ところが、我々がやっているのは、「全ての教材・指導法(もちろん、その中にはありきたりの普通の教材・指導法を含む)が適用できる子ども」を云々しています。そのため、我々としては子どもを語ったとしても、聞き手は、それに付随する教材・指導法に目がいきます。その教材・指導法がありきたりであれば、得られた成果は「子どもが特別に良かったため」と解釈されます。その教材・指導法が目新しいものである場合、得られた成果は「その教材・指導法に限って有効だった」と解釈されます。その解釈では、常に教師が主体者で、子どもは受け身の存在に過ぎません。我々は一生懸命になって、子どもが教師と同じように主体者になり得ることを主張します。しかし、そのことは、何が何でも理解できない、理解したくないのかもしれません。

 しかし、望みはあります。何故なら、全ての教師はかっては子どもだったんです。子どもが主体者になる過程を丹念に記述し、そのときの子どもの変化を自身の過去に照らして説明するならば、きっと理解してくれると信じています。それに、心ある教師であるならば、過去の指導経験の中に、子どもが主体者になった姿を見ているはずです。

[]自戒 22:15 自戒 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自戒 - 西川純のメモ 自戒 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学び合いを始めた子どもと、それ以前の子どもを比べた時、両者の違いはどんなものがあるでしょうか?目の前の子どもを見たとき、その変化は劇的です。学び合いが生じたときの子ども達のパワーには愕然します。それゆえ、変わったと考えがちです。しかし、その見方は、ある意味で我々が陥りがちな罠のように思います。

 例えば、生まれてからずーっと籠の中で育てられた鳥を想像してください。あるとき鳥籠から、その鳥を出して放てば大空に飛びます。確かに飛び方ははじめは弱々しいとしても、直ぐに力強く飛ぶでしょう。それでは、その鳥は放たれる前と、放った後で何か変わったでしょうか?明らかに、何も変わらず、ただ障害から自由になったに過ぎません。逆も同じです。放たれた鳥を籠に戻せば、もとの籠の鳥に戻ります。どのような状態にせよ、鳥は飛ぶ能力を持っています。子ども達も同じです。どんなに抑圧されても、その中には学び合う力を持っています。我々がやっているのは、単に籠から出したに過ぎません。 この自覚を忘れてしまえば、「俺がやった」という教師主導の旧来の考え方と何ら変わらない考え方に囚われてしまいます。

 同じような罠は我々自身への自己評価にも現れるように思います。子どもの有能さを自覚し、場を設定することの意味を理解できれば、教師の抱える問題のかなりの部分を、容易く、質高く解決することが出来ます。しかし、そうなる前と、そうなった後で、どれほどの違いがあるのでしょうか?実は無いのではないでしょうか?私はバンジージャンプに近いように思います。

 絶壁から身をなげうつということは、とてつもない恐怖をともないます。同じように、子ども達を有能と信じ、一歩、自分が引くということは、教師にとってはとてつもない不安を伴います。おそらくバンジージャンプインストラクターは、バンジージャンプがいかに安全であるかを飛ぶ人に説明するでしょう。でも、理性で理解しても信じられず、「そういってももしかのことがある」と不安になるでしょう。さらに、言葉に表すことの出来ない本能的な恐怖を感じるでしょう。我々がやっているのは、インストラクターのやっている説明のようなものだと思います。子どもの有能さ、場を設定することの意味を色々と説明することは出来ます。でも、その後、一歩あゆみを進めるか否かは天と地ほどの違いがあります。でも、一歩進めば、その爽快さに驚くことになります。でも、一歩進んだ後の自分と、それ以前の自分にどれほどの違いがあるでしょうか?子どもや籠の鳥と同様に、それ以前においてもその力はあり、ただ、囚われていただけのように思います。

 我々の考えが理解されないとき、我々は「変なやつ」と言われるでしょう。我々の考えを伝えることに疲れるとき、私は「あいつらはバカだ」と言いたい気持ちになります。しかし、その呪縛に囚われるとき、私たちが大事にしている互恵の精神が失われてしまいます。そして、その結果は「変なやつ」と思われるのみならず、「嫌なやつ」となってしまいます。互恵の精神を失わなければ、きっと「変なやつ」から、「興味深いやつ」、「いっしょに仕事をしたいやつ」になれるはずです。

 人を見て法を説けと言います。私、及び西川研究室での研究は、教科教育の世界では異端です。それでも、我々がつぶされずおり、かつ、逆にそれなりの地位を獲得している理由は、旧パラダイム学会世界においても業績を上げ続けているからです。さらに、現場実践の世界でも、受け入れられ、多くの教師用雑誌に掲載され、全国の教員研修団体、教育センターで講演を依頼されているからです。私は私自身の願いや思いはあっても、それを語る場合、相手に会わせて語ります。(最近博士の学位を得ましたが、その時には理学博士の皆さん相手に口述試験を受けることになります。その場合は、それなりの話をします。)互いの違いはあるものの、基本は同じであることを信じ、相手の背景を鑑み、表現することが必要と思います。身近にいる反面教師の集団を目の前にして、自戒としてメモりました。

追伸 子どもたちの力は凄いですが、教師の力も凄いものがあります。なにしろ、子どもの凄い力を押し殺す力があるんですから。仮に学び合いによって籠から放たれた子どもであっても、次の担任が押さえ込もうとすれば、いともたやすく押し殺すことが出来ます。あたかも籠から放たれた鳥も、また籠に押し込めれば籠の鳥のようになるようにです。だからといって飛ぶ能力が無くなったわけではありません。単に飛べなくなったんです。教師の力が大きい故に自戒しなければなりません。