■ [発見]新たな研究テーマ
昨日のメモ「人間関係」を書き終わってから、あそこに書いたことも研究テーマになることを気づきました。つまり、授業研究会の際の教師の視線分析です。昨日の研究会において、教師が教卓でしゃべっているとき、参観者の視線は教師に向かっていました。教師がしゃべっているとき、子どもたちの方を見ていたのは私ぐらいだと思います。もちろん、子どもを見ているときもありますが、それは教師が「やりなさい」といったことを黙々とやっている子どもの姿です。教材で教える、また、教え方で教える、というタイプの先生の場合、授業の主体者は教師と捉えているのですから当然です。私自身も今の視点に立つまでは、教師の方を見ていました。ただし、見ていることはちょっと違うように思います。
学校現場で麗々しく発表される教材の多くは、1960年代のアメリカのカリキュラム改革の際に既に見られたものです。そのころの教材を、大学院でイヤと言うほど見てきました。また、私の勤めた富士森高校は古い学校なので、理科室に行くと古い実験書が山ほどあります。高校教師時代、それを山ほど読みました。そのため、教具をちらりと見た段階で、だいたい分かってしまいます。目新しいものとしては、新素材を使った教材、もしくは最近になって急激に安価になった素材を使った教材があります。しかし、そのコンセプトは目新しいものではありません。また、指導法に関してもそうです。特に「○○法」等のかっこいい名前が付いている指導法の殆どは、今から20年前からあったものばかりです。したがって、教師がしゃべっている教材や板書には昔から興味がありませんでした。
私が興味を持っていたのは、まず、「声」です。私と違って、普通の大きさで語るにもかかわらず、教室中に響き渡る声をお持ちの先生がいらっしゃいます。その先生に対しては、羨望を感じます。また、その先生の雑談の際の語り口も興味があります。また、教師主導でがんがんやるタイプなのか、子どもの発言を拾いながらやるタイプなのかも興味があります。でも、「声が悪かったら悪い先生」、「教師主導だから悪い先生」というものでもありません。あくまでも教師は総合的なものです。そして、最終的には、この先生の授業を聞きたいな~と感じるか、否かで先生方を見ていました。しかし、今は子どもの方に興味があります。子どもを見ていると、教師を見ている以上のことが読みとれることが分かったからです。
追伸2 ただし、例外があります。それは、最初の目標の設定の段階における教師の語りと、子どもたちが作業をやっているときの何気ない教師の行動は重要です。