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2003-12-12

[]喧嘩の仕方 17:48 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理学部出身で高校教師経験者です。現在研究を考えると私のような経歴はハンディだと思います。おそらく、理学部でなくとも、文学部経済学部芸術学部・・等の教員養成系学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者は五十歩百歩のハンディを持っていると思います。従って、理学部以外の方は、それぞれに読み替えてください。

 理学部(正確には筑波大学第二学群生物学類)で4年間育てられる中で、科学探究人間の最高の仕事であるという洗脳を受けます。そして、優秀なものはその道(即ち理学部博士課程)に進むべきであり、教師に進むのは2流、3流であるという環境の中で競争します。私は、書くと長くなるので割愛しますが、色々な事情教育大学院に進みました。その中で、理学部に対しての反発から、教育研究にのめりこみました。結果として、大学院学生としては異常なほどの研究業績を上げて修了しました。ただし、その当時の研究は、対象酵母(卒研の研究テーマ)を人間にしただけで、基本的に理学部の問題意識と方法論でした。

 大学院で最も尊敬した小林先生(即ち指導教官)は現場経験者でした。一方、現場を全く経験しない先生の授業は納得できませんでした(だから小林先生についたんです)。その経験から、研究に対してやりたいという希望があるものの、現場教師を第一の進路と考えました。自分としては、自分に研究者資質があるならば、小林先生と同じように本人が無理にあがかなくとも自然になれると思っていました。同時に、現場教師に対して研究者と別種ではあるものの強い志望を持ちました。結局、判断が付かなかったので、時間が決めると考えました。

 現場での経験は鮮烈です。私の勤めた高校定時制高校で、クラスの半数は純粋オール1の生徒です。今までの教科指導のイメージは完全に崩されました。しかし、信じられない幸運のおかげで、尊敬でき頼れる先輩教師と管理職のおかげで乗り越えることが出来ました(今考えると、子どもにとっては?だったと反省します)。その高校教師時代、高校教師研修団体の研修に積極的に参加しました。別に高邁なものがあったわけではありません。新規採用時代は、その研修会に参加することによって天下御免で、授業から離れることが出来ます。毎日、毎日の、手抜きしたら許してくれない子ども達に対する授業案づくりから、半日でも離れられるのは天国です。また、新規採用研修以外の研修金曜日の夜とか土日にありましたが、それも大学時代に戻ったように理学空気に触れるのが新鮮でした。

 しかし、そのような研修違和感を感じました。それは、その研修会に参加する人が、難しげな理学の話を競って議論するんです。私も理学部出身でそれなりの勉強をしているはずなんですが、まったく歯が立ちません。その研修会には高校時代の恩師が世話人みたいな役で参加していました。その先生にそっと、「先生、私には全然ちんぷんかんぷんなんですけど・・」と相談しました。そうすると、恩師は「言っている人も分かっていないんだから気にするな」とのことでした。なるほどと思う反面、なんでそんなにまでして議論しているのか不思議でした。でも、直ぐに分かりました。それは理学部時代の劣等感補償なんだろうと思います。参加者理学部での価値観の中で議論しているのですから、理学部的に難しげなことに集中しているんだろうと思います。

 もしかしたら、その文化に染まったかも知れませんが、私は染まりませんでした。理由は、毎日、毎日、教えなければならない子ども達が、そのようなことで納得しないとは明らかだったからです。先に書いたように、私は尊敬でき頼れる先輩教師と管理職に恵まれました。それらの教師は子どもを語っていました。授業のことを語る際、授業の内容ではなく、その授業を受けた子どもの反応を語っていました。その教師の真似をしながら、子ども達と接することによって、理学部論理子ども押しつけたときの泥沼から脱することが出来ました。でも、子どもを語り、子どもを知れば知るほど、抜け出せない泥沼に入りました。その結果、教師としての充実感と比例するように酒量が多くなりました。そして、研究者の道より、教師の道の方が魅力的に感じ始めたとき、上越教育大学に異動の話がおきました。私自身は判断しがたいものがありました。しかし、運命に任せようと感じました。結果として、大学教師になりました。

 大学教師になってからは、大学院時代の研究のように理学部の問題意識と方法論で論文を書きまくりました。たしかに論文は他を凌駕する数だけ稼ぐことが出来ました。でも、心の中で高校教師時代に学んだ「教材ではなく子どもの視点で見る」ということ、そして、子どもとふれあう楽しさということを満足できませんでした。それを脱したのは現場先生と一緒になって研究する現在スタイル確立してからです。

 振り返ってみて、理学部出身の私は理学部価値観というハンディを持って教師になりました。しかし、理学部価値観が通用しない学校に勤務することによって、理学部価値観から脱することが出来ました。でも、その反動として「子ども」に囚われることになります。しかし、子どもに囚われても、子どもも、そして私自身も救われませんでした。そのひずみが私の体(特に肝臓)を壊す前に大学に異動することが出来ました。でも、そのままでは理学部価値観に逆戻りです。それを脱することが出来たのは、上越教育大学現場先生方にふれあうことによって、理学部の方法論と現場での問題意識を融合することが出来たからです。

 こう考えると、偶然の基づくものです。もし、「教育を実証的に研究出来ることを経験した」、「初任学校が最底辺校だった」、「初任校で先輩教師・管理職に恵まれた」、 「上越教育大学という現職教員院生として所属する大学採用された」、以上の一つでも抜けていたら今のような研究は出来なかったと思います。それ故、教員養成学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者で、子どもに着目する問題意識と、かつ、単なる経験論を乗り越えて学問の方法論を学び取る人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。

追伸 逆に言えば、教員養成系学部出身者であっても、目前の子どもの問題に囚われず、その問題を解決するために、学問の方法論を取り入れられる人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。