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2003-12-25

[]偉いと尊敬する人 11:49 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 40を過ぎ、教授となりました。その結果、20歳後半であれば雲の上の人と思う人と、それなり対等(?)に話すことが出来ます。おそらく、大学におても、学会においても、雲上人に対してズケズケとものを言うため、大変失敬なやつと思われる場合も多いと思います。ところが、その雲上人の半数からは、いたく可愛がられています(半数には蛇蝎のように嫌われていますが)。

 私の意見は極めてラディカル(革命的)です。理論的には極めてシンプルで、かつ、強力なシステムを考えています。そのベースには学習者の利害に一致し、そして、独立法人化したあとの大学の方針に一致していると確信しています。ただし、世の中には、表に出るものばかりではなく、裏のシステムがあります。そして、世のシステムには急激に変えすぎると、システム中の人がついていけないものです。だから、私は私の考え方は正しいと確信している一方、それが満額、明日から実現したら「危ういもの」があることも自覚しています。だから、よく分かった人に自分の意見をぶつけ、その反応を見ます。その反応を見ることによって、その人が「偉い人」か否かを判断します。

 昔読んだ本に偉くなる人の特徴が書いてありました。曰く、「人の話を誠実に聞いて、そして、無視できる人」。私の経験から言っても、それは当たっていると思います。まず、私が尊敬できない人は、「人の話を聞けない人」です。でも、自分の意見とは全く反する、自分より社会的地位の低い人の話を最後まで聞ける人というのは、経験上、百人に一人ぐらいのものです。さらに、そうでありながら、全体を俯瞰し、その全体像の中で私の意見の中で使える部分と、使えない部分を見分けられる人が尊敬できる人です。前者後者はほぼ一致しているように思います。つまり、全体を俯瞰し得るから、私のようなラディカルな意見を最後まで聞けるし、逆に言えば、ラディカルな意見を最後まで聞ける人は全体を俯瞰し得るのだと思います。

 私が求めるのは、最後まで聞いてもらえることです。聞いた結果総合的に否定するということは当然と考えています(自分の考えがラディカルであるという自覚はあります)。ところが、世の年長者(私よりもと言う意味です)の中で、最後まで聞ける人は少ないようです。その理由は、理解できるだけの頭がないからです。そして、理解できるだけの頭があっても、偉くなると、理解する努力を怠るようになります。そういう人は、無視するか、潰しにかかります。でも、私がそんなことをしなくても、「人の話を理解する能力がない」、「理解しようとする努力を怠る」という特質を持つ人は、自分から潰れていきます。

 私の意見はラディカルであるので無視されるであろうと思っても、語り続けます。それは100語って多くが無視されても1は、その人の心に残るからです。従って、100回100を語れば、その人に100が残ります。しかし、語る過程で私自身がどんどん変わります。世の状況も変わります。そのため、100語って相手に1が残ったとしても、次に語るときには101を語ることになります。したがって、常に100のギャップが残り、「まだまだ」という気持ちが残ります。でも、100回かたれば100残ります。それは、おそらく平均的な大学人の望みの数倍の願いが叶っている量です。欲深です。だからこそ、「人の話を誠実に聞いて、そして、無視できる人」に何回も語ります。

[]似ている 11:49 似ている - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 似ている - 西川純のメモ 似ている - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年度は、宇宙一厳しい西川研究室に所属したいという奇特な学部学生さんが二人いました。その内の一人と面談し、色々と話しました。この学生さんは戸北研究室西川研究室の二つの研究室希望し、戸北先生と私のところに研究室訪問をしました。戸北先生のところに面談した際、コミュニケーションをやりたいということを言ったので、戸北先生は「それなら西川研究室がいいよ」と言ったそうです。そして、最終的には西川研究室に所属しました。

 その学生さんと会って、副免許(すなわち小学校免許状の他に取る免許)のことをまず聞きました。その学生さんは、幼稚園先生希望し、それゆえ幼稚園免許状をとれる上越教育大学に入学したそうです。私の家内幼稚園先生保育園先生をやっていました。そのため、その実態に関して色々と教えてもらうことは多いです。そのことから、現状の幼稚園先生職業としての環境がかなり厳しい現状のことを話しました。次に、来年、どのような就職試験を受けるかと聞きました。そして、現状の就職状況と、どのように受験するのが良いかを話しました。その話をし終わった後、その学生さんは「先生が話している流れは、戸北先生に話してもらったことと全く同じです」と言い出しました。とても驚きました。そこで、「それじゃあ、その後、戸北先生はどんなことを言ったの?」と聞きましたが、その学生さんは「はっきりとは覚えていません」と言いました。私は「残念だな~」と思いました。次に私が語ったことは、「クラブがどれだけ忙しいか?」ということを聞きました。そのとたん、その学生さんは、大きな口を開けて「あっ」という顔をしました。そして、「戸北先生が、次に言ったのは、そのことです、思い出しました」と言い出しました。思わず笑い出しそうになりました。

 私と戸北先生は、就職してから17年間、仲良くやっています(これは全国的にも極めて希なケースです)。そして、私が嫌いう人と、好きな人が、戸北先生と全く同じなんです(だから、仲良くやってられるのかも知れません)。でも、これは私たちの間だけで分かることなんです(人の好き嫌いを公にすることはないですから)。でも、私と戸北先生が似た部分があると認識している人は少ないように思います。人に対しての接し方、何よりも講義・講演での話し方が全く違います。学内政治での発言の仕方も違います。学内での人物評価は全く違います。でも、本日、似ているという人が現れました。とっても嬉しい!

[]クリスマスイブの次の日 11:49 クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の昼職の話題は、今日の朝の子どもの反応です。昨日の夜に枕元においたプレゼントに対して、子どもがどのように反応したかが話題になりました。私の家も、他の家も同じく、素直にサンタさん存在を信じたそうです。我が家も、息子は「サンタさんが来た」と言いました。先輩パパさんで、小学校先生のYzさんによれば小学校中学年までは信じているそうです。気持ちとしては、もっと長く信じてほしいな~と思います。でも、高校生になってもサンタさんを信じていたら不気味です。そう考えると、小学校5年生ぐらいまで信じてほしいな~と思いました。

追伸 本日風呂上がりに家内が息子に「大きくなったら何になりたい」と聞きました。息子は悩んだ結果、「生卵になりたい」と言いました。理由は分かりません。聞いたとしても、分かる説明はしてくれないでしょう。家内は、「そう、がんばってね」と言っていました。家内幼稚園での教え子に、七夕の短冊に「ヘビになりたい」と書いた子どもがいたそうです。もちろん、理由は不明です。私は「ヘビよりも生卵の方がましだな」と変に納得しました。

[]フキノトウ 11:49 フキノトウ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - フキノトウ - 西川純のメモ フキノトウ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、食堂の帰りにフキノトウが生えているのを発見しました。思わず、取りました。冬の序盤にもかかわらず、私の手は春の香りでいっぱいです。研究室に戻って、袋を用意して本格的にフキノトウ取りをしようと思いました。ところが、付近をくまなく探したのですが、フキノトウが見あたりません。最初に発見した2畳程度の場所にしかフキノトウが生えていませんでした。とても貴重なフキノトウです。

[]博士 11:49 博士 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 博士 - 西川純のメモ 博士 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 理学部にいたとき「博士」という学位は足の裏の米粒と言われていました。つまり、取らないと気になってしょうがない。でも、取ったとしても、それを食べられない(つまり、それで生活できない)。実に、言い得て妙です。ところが、人文系に移ると話は別になります。人文系の場合「博士」という学位を持っている人は少ないように思います。少なくとも 生え抜きの教科教育研究者(教科教育研究者生活を始め、教科教育でのみ生きている人)の中では博士の学位を持っている人は、数パーセントもいないと思います。そのため、博士の学位を持っていると言うだけのことで生活している人は少なくありません。いや、博士課程を中退したという変な学歴だけで生きている人さえいます。 つまり、遠い昔に外国語が得意だったため、博士課程の試験合格したというだけで、博士の学位を取って修了したわけではないということです。言い換えてみれば、東京大学中退した人が、東大合格したということだけを武器に世渡りしているようなものです。バカみたいなものです。

 博士という学位は、運転免許状みたいなもので、その学位を得られるという学識で、どれだけのことを成すかで評価されなければなりません(と、私は思っています)。重要なのは「なにを成したか?」であって、学位ではありません。でも、世の中には学位だけで生きている人、中退という学歴(?)で生きている人もいます。そのような人と対等に渡り合うためには博士の学位が必要です。博士の学位があれば、「博士の学位は重要ではない」という主張を、負け犬の遠吠えではなく、公の席で大きく語ることが出来ます。私の場合は、良き人に巡り会うことによって、その学位を得ることが出来ました。

 私に学位を与えてくれた方の恩に報いるためにも、機会があるならば、学位を与える側になりたいと思います。でも、「学位だけで生きていこう」という人に学位を与えたくはありません。また、心の狭い私は、ボランティアで学位を与えたいとは思いません。なぜなら、人に学位を与えるためには、かなりの労力と時間をかけるからです。前のメモに書いたように、私が受け入れる条件は「修士課程で指導した経験がある現職者で、2年間、宇宙一厳しい西川研究室を生き残れた人」、「義理人情のしがらみがあり断れず、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、私と仲良くできる現職者」です。私がこれから退職の65歳まで21年間有ります。今のシステムだと、博士課程で学位を与えられるのは十数人に過ぎません。論文博士も20人に過ぎません。自分の人生のなにがしかを賭けるにたる人と出会えれば幸いです。どれだけ出会えるでしょうか?