■ [大事なこと]今の私には全く見えないもの、そして知りたくてたまらないもの

「今の私には全く見えないもの、そして知りたくてたまらないもの」と前のメモに書きました。それは「自分」、もしくは「自分たち」なんです。我々が授業で明らかにしつつあることは、極めて強力です。それは授業場面のみならず、職場、クラブ等、人が共にいる場面に適用出来るものです。従って、当然、自分にも適用出来ます。しかし、自分を見る目は曇るものです。そのため、どうしても見えない部分があります。ある意味で、その部分は先延ばしにしていたのかもしれません。しかし、我々の考え方を、より多くの先生方に理解して貰いたい、という当面の最大の課題を達成するためには、どうしてもそれを避けられません。つまり、我々が何故に、我々の考え方を理解し得たかを分析することによって、人に理解して貰うにはどのようにすべきなのかが明らかになります。しかし、繰り返しますが、それが辛い。だれしも自分の劣っているところ、誤っているところを見つめることは辛いものです。
今、修士1年の3人は、それに立ち向かおうとしています。偉そうなことを言おうとすれば、その言葉の刃は、すぐに自分の胸に刺さります。それ故、結果をあからさまにすることをためらうでしょう。しかし、過去の研究が示すように、自己モニターは極めて強力な武器です。現在の壁を乗り越えられたら、きっと西川研究室は次世代に脱皮出来ると思います。その先が分からないけど、凄いものがあると思います。だって、今までは「学び合う集団を創造する」ことをターゲットにしていました。しかし、次世代では、「学び合う集団を創造」する集団を創造するんですから。
追伸 次世代の西川研究室では、より高次の考え方に基づき、研究室運営をすることが出来ます。もちろん、その手の内は私が独占しようとはしません。メンバーにオープンにします。手の内を見せることの方が、絶対に有効に働くということは、次世代でも真理だと思います。
追伸2 平常だったら、もうそろそろ修士1年の定期的な個人ゼミはなくなり、不定期の個人ゼミが主体となります。ところが、今年に限っては、不定期の個人ゼミと共に、定期的な学年ゼミを継続しています。そのため、現在の修士1年の方は、今も毎週、私の「期待しているよ」、「遊んでいいよ、結果さえ出してくれば」、そして、「心に響かない」の定期的攻撃を受けています。そのことでOBや先輩諸氏が怪訝に思っているかもしれません。しかし、一言弁明します。それをやれと強いているのではありません。ご本人たちの発意に基づくものです。学習者は、最も良い方法を考えつくものです。私はそれを信じています。実は、この院生さんの学年ゼミというものも、「今の私には全く見えないもの、そして知りたくてたまらないもの」に関わるように感じてなりません。考えてみれば、何故にいままで学部では学年ゼミをやっていて、大学院ではやっていないのか、その理由を考えることが出来ません。何故なんだろう・・