■ [親ばか]ほんのちょっと一休み
月曜、火曜と休暇を取って瀬波温泉に行きました。途中、行きはマリンピア日本海、帰りは新潟ふるさと村に行きました。息子の成長を感じました。第一は、半年ぐらいまえにマリンピアに行った時は、波の音にビビリまくり、泣きまくりでした。ところが今回は大丈夫です。瀬波温泉では大きなお風呂に喜んで、湯船の中をうろうろと歩き回っていました。瀬波温泉の海岸にいっても海を怖がりません。 家族で温泉に浸かり、ごちそうを食べ、ぼーっとしました。とてもゆっくりしました。
しかし、夕方4時に家に到着すると、学生さんから「明日必要な書類があります」とのことで、急遽大学に戻りました。大学でコンピュータを開くと100弱のメールがあり、早急に返答しなければならないメールが、そのうち20ほど含まれていました。大学に到着し5分もたつと、すっかり元のモードに戻りました。
■ [ゼミ]呼び方
今、学校では「君」という呼び方は控え、「さん」に統一するように指導がなされているようです。しかし、私にはちょっと違和感があります。
男女同権なんだから、同じ呼び方にすべきだという論は筋が通っているように思います。しかし、そういっている先生に、子どもが「○○先生」と言わずに、「○○さん」と呼んだらどうでしょうか?また、「さん」に統一するよう指導している校長先生が、職員から「○○さん」と呼ばれた時、それを自然に受けることが出来るでしょうか?言うまでもなく、校長であろうと、教師であろうと、小学校の児童であろうと、人としては同権です。おそらく、「いや、それとこれとは話は別だ」と言いだし、色々ともっともらしい理由を挙げ、男女は「さん」で統一する一方、「先生」、「校長」の呼称は残すべきだというかも知れません。しかし、どんな理屈であっても、その理屈をちょこっと変えれば、男女で呼称を分けるもっともらしい理由になると思います。
群れる生物には序列があります。しかし、自然界において序列の高いものが一方的に有利に働くということはありません。なぜ、そのようになるかといえば、自然界において、序列が高いものが一方的に有利に働くようにすると、序列の低いものが群れを飛び出すという安全ベンがあるためのようです。自然界における序列は、互いの衝突を避けるための機能を持っているように思います。例えば、右側通行であらねばならない理屈はありませんが、右側通行と統一するならば、いらざる混乱を避けることが出来ます。もちろん、どうしても左を走りたいと個人が願うことは出来ます。しかし、そう願えば、右側通行の社会で安住している他のメンバーから排斥されます。排斥を受ければ、その人は群れを出るか、それとも自分の主張を引っ込めるかを選択します。結果として、その人が群れを出るかも知れません、そして、その人と同じような理由から群れを出る人が続出すれば、おそらく排斥は弱まり、結果として左を走りたいという人も認められる新たなルールが出来るはずです。
フェミニズムの主張も同じだと思います。過激な主張をする自由は誰しもあります。しかし、サイレントマジョリティは、それに同意するかしないかを判断する権利を持っています。もし、大多数がそれに同意出来なく、さらに反感を持つならば、そして法の中で許される範囲内の排斥は行われるはずです。法の中で許される範囲内の排斥であっても、集団全員が排斥した場合、そうとうにきつい排斥なるはずです。その際、その主張をする人は群れを出るか、主張を引っ込めるかを選択しなければなりません。もし、その人がとても重要な人であれば、群れを出るということは群れに大きな損失なので条件闘争ができます。また、その人の主張は、実は過激ではなく、多くの人が共感するならば、群れは変わるはずです。呼称についても、「こうあるべきだ」というものがあるのではなく、それぞれの群れのメンバーや、担ってきた歴史によって、違って当然だと思います。
ジェンダーに関して言うならば、男女が全て同じ状態落ち着くということには私自身は反対です。何故かといえば、男女で別々な役割を担うことを前提として現在の社会が成り立っています。もし、男女が家庭において全く同じ立場になるならば、男女で結婚する必然性はほとんど無くなるはずです。その場合、同性同士の婚姻を認める方向になるだろうし、そうなると法体系を大幅に変えなければなりません。さらに、それが可能であっても、生物的な人間がそれについていけるか不安です。例えば、同性同士の夫婦の間で育った子どもが、どのような育ち方をするかなど、予測しがたい部分が大きいように思います。それではどうすべきかと言えば、違った役割を担うけど、「いやだ」と主張できるようにすべきだと思います。例えば、私のカアチャンは専業主婦です。専業主婦はとても大変です。すくなくとも、カアチャンは大変であると私は認識しています。そのため、カアチャンから何か言われると、謹んで従うようにしています。私とカアチャンの力関係・利害関係(そして。もちろん愛情関係も)の中で、互いに納得出来る妥協点を作り上げています。おそらく、どの夫婦でもそうだと思います。でも、私たちの妥協点と他の夫婦の妥協点が同じだなんて思いません。別々でいいし、それが当然だと思います。
呼び方も同じです。どういうふうに呼ぶべきかは、子どもたちに考えさせればいいと思います。校長先生は、「男女は同権であるべきだ」ということを理解させるよう目標を与えることは良いことだと思います。しかし、どう呼ぶべきかの方法にまで介入するべきではないように思います。
■ [う~ん]公務員最後の日
あと数時間で全国の国立大学は独立行政法人となります。それに伴い、職員の身分が国家公務員でなくなります。教官は教職員となります。私もその一人です。国鉄はJRとなり、専売公社は日本たばこ産業になり、電電公社はNTTになりました。明日は、学制発布以来、連綿と続いた国立大学というものが消滅する日です。小さな県の県庁所在地の人口程度の人の身分が変わる日です。しかし、どのテレビのニュースを見ても、それは報じられませんでした。
JRにせよ、日本たばこ産業にせよ、NTTにせよ1日で激変するわけではなかったと思います。しかし、最大でも5年のうちに「負け組」と「勝ち組」に明確に分かれるはずです。負け組はどんなにその非をならそうとも、その趨勢は変わらないことは、国労の歴史が示すとおりです。大きく眼を開いていなければなりません。そう書いているうちに、あと数十分になってしまいました。