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2004-05-25

[]ユーレカ 15:55 ユーレカ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ユーレカ - 西川純のメモ ユーレカ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の4つの謎を書きました。複数の方から、メールを頂きました。いずれの方も、1の謎に関しては、「学び合い文化が成立していない、ごく初期には学び合うことを目的とすべきだが、それが成立した後は課題達成を目的とすべきだ。」という内容でした。我々の考えの基本は、「子どもは有能だ」という考えなので、その考えを共有している方ならば、上記の回答は必然です。実は私もそう思っています。しかし、迷いがあります。そこで、それらの方に、以下のようなメールを出しました。

『1の件ですが。

私もそう思います。

しかし、私が悩んでいるのは究極の状態です。おそらく、大抵の学習者の場合、○○さんの考えでいいのだと思います。でも、もし、学び合いが全く不得手で、かつ、学び合わないと学習が成立しない子どもがいたらどうするか?ということです。多くの子どもが、その子と学び合おうと努力します。しかし、それによって他の学習者の課題達成が阻害されたり、精神的な不快感を感じさせたりさせ、さらに、その子に変容が見られなかったら・・

その時、教師はどのようなスタンスを取るべきか?ということが問題なんです。もし課題達成を目標とすべきである場合、その子を切らざるを得ないんです。

正直に言います。

私は切ります。

教師は子ども人生に対して責任を負えないし、負うべきではないと思っています。自分の考える最善の環境を与えているにもかかわらず、それを生かし切れていないとしたならば、その結果を負うのは教師ではなく、その子です。と考えています。しかし、一度、それを自分に認めてしまうと、安易に、次々と子どもを切ることになります。そして、教師がそのようなスタンスであると子どもが感じると、子ども集団が成立しえるのか疑問です。そうなると、教師は課題達成以上に、学び合うことの重要性を語りたくなります。

 私の悩みは、そこなんです。』

 それに対して、お一方から以下のメールを頂きました。

 『難しい問題ですね。しかし、私は、そういう生徒を実際に切ってきました。切ってきたというか、集団に取り入れようとしましたが、その生徒自身が逃げていきました。学び合いは、その生徒にとっては、苦痛で、みんなが頑張っているのに自分がやらない(やれない)ことが他の班員の足を引っ張ると考えたのか、感じたのか、自分から理科の時間は保健室に逃げていました。無理に授業に出したり、友達を使って迎えに行かせると、怒り出したり、暴力をふるいます。そのうち、「そんなにいやだったら、好きにしろ」ということで、ほっときました。今年も、あるクラスに、学び合いが不得意で、学び合うことが苦手な生徒がいます。教師魂から言えば、「学び合わせたい」と思うのですが、学習課題達成を優先するでしょ。しかし、もし、学級担任だったら、そう簡単には「学び合い」はあきらめません。道徳、学活等、授業以外を活用し、学び合い目的に授業を行うこともあると思います。では、どういう時にそれをするか。それは愛情だと思います。その生徒に愛情を感じなければ、そこまで一生懸命しません。私は神ではなく、人間です。西川先生が恐れられているように、1人の例外を作ると、それが続くといわれましたが、私はそうは思いません。その子はそうですが、また同じケースになっても、愛情やその他の条件から「学び合い」を目的にがんばることもあります。その生徒は、たくさんの先生や大人と関わります。私が救えなくても、だれかが救ってくれます。私に波長があう生徒だけを救って、何が悪いのでしょうか。いや、波長がある生徒、私を信じ、慕ってくる生徒に一生懸命その子のためになることを行うでいいのではないでしょうか。去る者は追わず、来る物は拒まないです。よく西川先生も言われていましたよね。』

 このメールで、吹っ切れました。先のメモに書いたように、原理原則をないがしろにすれば、判断が出来なかったり時間がかかったり、さらに、判断にブレが生じます。だから、原理原則は堅持する必要があります。しかし、何でもかんでも、クリアーで単純な原理原則で切れるものではありません。堅持しつつも、ギリギリの所では、原理原則を越えるものが必要なのだと思います。その場、その状況で判断しなければならないことは常に残ります。結局、「愛情」というような曖昧部分でしか表現出来ないものがあるのだと思います。

 私は切る場合はあり得るし、切るべきだと思います。しかし、それを安易にしてしまえば、結局、子ども集団が崩壊し、結局、課題達成も成り立ちません。では、どのような場合に切れて、どのような場合に切るべきではない(つまり、学び合うことを目標とする)のかの規準を求めていました。でも、それの単純な規準はないと思います。結局、その時、その場において、自分自身の良心(愛情)に問いかけるべきなのでしょう。どうやればいいという方法はありません。しかし、そのことが良いのか悪いのかは分かります。もし、その良心に問いかけた結果が正しければ、子ども集団はそれを認め、その後も学び合うことによって高い達成度を維持する集団を形成し続けます。しかし、その良心に問いかけた結果が誤っていれば、子ども集団は崩壊します。

 実は、上記のことが分かると、2番目の謎は氷解します。私が学び合い研究しつつも、全ての同僚と学び合っていないことを悩む必要はありません。重要なのは、私が課題達成しているか、否かです。西川研究室は学術研究においても、実践研究においても本学のトップレベルの成果をあげ続けています。ならば、現状に問題があるわけはない。

 以前から、教師の側が子どもたちのグループ構成を決めることはナンセンスなことだと思っていました。というのは、人と人との合う合わないないというのは、実に多種多様な要因が絡み合います。さらに、合う組み合わせが、別な課題においては合わない組み合わせになります。そんな難しいことを、たかが教師が出来るわけありません。そんなことより、自由にグループ編成が出来る自由度子どもたちに与えれば、トライアンドエラーの中でグループが構成されると言うことは、5年以上前のFさん、Iさんの研究からも明かです。つまり、「子どもは有能」であるならば、「私も有能」なのでしょう。

 以上のことが納得出来れば、原理原則(というより「考え方」)を自信を持って堅持し続ければいいんです。あ~すっきりした。

 後に残るは、私の実践の場である、西川研究室の文化を、より高次の段階にするにはどうしたらいいか、そして、それをどのように広げるかだけです。でも、これが難物だな~

追伸 ユーレカは「やった!わかった!」の意味です。アルキメデスアルキメデスの原理を発見した時、「ユーレカ!」と叫びながら、浴室から裸で街に跳び出したという逸話があります。私の場合は、頂いたメールを読みながら、1分以上ウルウルしていました。

[]管理職 15:56 管理職 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 管理職 - 西川純のメモ 管理職 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 求められる教師の姿を明らかにすると言うことは、実は、職員室における校長の姿を明らかにすることと同じです。そして、それは自分を見つめることです。現在、それを我々は研究しています。今のところの、私の考え方です。

 管理職に求められることは以下の3つです。

 第一に、判断が速いことです。判断が出来ず、他に丸投げするのは論外です。また、判断するに時間がかかるのも、問題です。

 第二に、判断にぶれがないことです。そのような管理職の元の集団において、メンバーは管理者がどのような判断を下すであろうことが予想することができ、かつ、それがメンバーの間で一致し、その予想がはずれません。

 第三に、その判断基準が、メンバーにとって共感できるものであることです。

 第一と第二を成り立たせるためには、管理職は、単純な判断基準をごく少数持つことが必要です。複雑な基準(具体的には文字にすると2行以上かかかる基準)であると、判断に時間がかかったり、最悪の場合は判断不能になったります。基準が多数あると、その基準の間で矛盾が生じます。結果として判断に時間がかかったり、判断不能となったります。また、ある基準によって判断する人と、別な基準によって判断する人との間で闘争が起こります。

 問題は第三のメンバーにとって共感できる判断基準です。ちょっと考えると、メンバーの利害に合致するということが思いつきます。しかし、それはそれほど大事ではありません。全てのメンバーの具体的に利害に合致するということは不可能です。さらに、仮に全てのメンバーの利害に合致したとしても、合致の度合いが違います。相対的に合致しない人は、合致しない人と同様の不満を持ちます。個々のメンバーの利害に関しては、最低限、全てのメンバーが「理論上」合致可能な基準であるということが必要であれば十分だと思います。では何が必要かと言えば、その集団が依存する、より上位の集団が求める基準であることだと思います。それを満たすならば、その集団は存続可能であり、結果として、大多数のメンバー未来メンバーを含む)は生存可能となります。

 つまり、どのような判断基準を持つべきかを判断することが最も重要管理職の資質です。では、そのような判断基準を持った管理職はどのように行動すべきなのでしょうか?

 複数の人から、トップの管理職は基準を明確にせず、2番目のトップが基準を明確に示し、軋轢があった時、トップの管理職が調整するべきである、と聞きました。その理由は、もし、トップの基準が間違っていた時、引っ込みがつかなくなる、というものでした。たしかに、校長と父兄が対立した場合、動きがとれません。従って、父兄と教頭が議論し、その推移を見守りながら、校長が最終的な断を下すべきだ、という考えです。なるほど、と思いました。しかし、それは違うと思います。なぜなら、少なくとも、私はその戦略をとったことは、過去において一度もありません。もちろん、院生代表の人にメンバーの人に私の意向をアナウンスをしてもらうことはありますが、それは私の意向であるという前提で、メンバーに言ってもらいます。決して、私の意向を秘して、院生代表の意向であるというようにアナウンスすることを求めたことはありませんし、したいと思ったことはありません。

 それでは、校長はどうすべきかと言えば、愚直に自分の基準を述べ、それに対する反論を受けるべきです。もし、先に述べたような基準であれば、愚直に何度も繰り返して主張すれば、相手は根負けするか、少なくとも負ける可能性は少ないと思います。そして、最終的な調整は教頭がすればいいことです。つまり、調整役は校長ではなく、教頭の役目のように思います。もし、教頭の調整の結果、 自身の基準が誤りであることに気づいたなら、謝って変えればいいことです。誤りであっても、その基準が善意に基づくものなら、謝れるし、まわりも認めると思います。でも、これって難しいかも知れませんよね。愚直に、自説を繰り返すことは頭のいい人にとっては難しいと思います。それが出来るためには、自身の基準に対してどれだけ考えたかが問われます。また、教頭の延長上に校長があると捉えている人は、教務室での陽気な教頭に毛が三本増えたのが校長考える人もいるでしょう。

でも、愚直に繰り返せば、良い校長というわけでもありません。単に、無神経であったり、無能であったりする場合があります。つまり、有能な管理職とは、以下の4つを全て満たす人です。

 第一に、判断が速い。

 第二に、判断にぶれがなく、メンバーは管理者がどのような判断を下すであろうことが予想することができ、かつ、それがメンバーの間で一致し、その予想がはずれない。

 第三に、その判断基準が、メンバーにとって共感できる。

 第四に、その基準を自身の責任で、何度も繰り返し主張できる。

  厳しい資質です。でも、この4つが成り立つならば、それをサポートするメンバーが守ってくれます。私もそのような管理職になりたいと思います。そのためには、4つの謎を明らかにして、私自身に自信を持てる基準を持ちたいと思います。

 私は間違っているでしょうか?