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2004-05-26

[]ユーレカ(その2) 15:53 ユーレカ(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ユーレカ(その2) - 西川純のメモ ユーレカ(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先のメモを補足したいと思います。

 学び合うことと課題達成(学校の場合、成績や進学などで評価される場合が多いと思います)が対立するものではなく、不分離のものであるというのが我々の考え方の特徴です。簡単に言えば、「学び合いは大事、でも、そればかりやっていたら基礎基本が保証されないし、第一に、時間内に終わらない」という考え方は誤りだ、ということです。おそらく、一般の場合、すなわち、学び合いの文化がない状態から出発する時は、学び合いを求めざるを得ません。しかし、学び合いの文化が成立すれば、教師がそれを強いなくても、課題達成を求めれば子ども達は学び合います。そして、どの場面で学び合い、どの場面で学び合わないかを判断できるのは子どもなのですから、学び合うことを求めるのではなく、課題達成を求めるべきだと思います。

 しかし、レアケースだけど学び合いと課題達成が矛盾する場合があります。具体的には学び合いをさせると他の学習者の課題達成の障害になる学習者が存在します。私は、そのような場合、教師は学び合いを優先させるべきなのか、課題達成を優先させるべきなのか?ということです。

 私が分かったのは、第一に矛盾が起こった場合、改めて考えざるを得ないということです。しかし、私に迷いがあったのは、そのような原理原則のっとらない曖昧なものであると暴走しないか、ということです。しかし、頂いたメールで分かったのは、「心」があるならば、その場、その時に合わせた判断が出来る、ということに勇気をもらった点です。第三に、その自分の判断が合っているか、否かは、自分が目標を与えている子ども集団の姿に現れる、ということです。逆に言えば、目標を与えている子ども集団の姿を見ることによって、暴走は防げるという自信を持ちました。

 私は「切る」という判断を下す場合があると考えていますし、切ったことがあります。そして、「切った」場合の暴走を恐れます。しかし、「切らない」と判断する人もいるでしょう。しかし、「切らない」場合の暴走も恐れるべきです。具体的には、「学び合う」ことを最後まで目標として掲げることによって、子ども達が「やってられない」と、その教師を目標の設定者として見限る場合があるということです。ぎりぎりのところで、切る、切らないは、教師、子どもの一人一人が課題達成がどれだけシビアに求められているかに依存します。これは、受験の圧力がある場合、無い場合では違うでしょう。また、教師が子どものどれだけの範囲を管理しているかに依存します。具体的には、学級担任制度の小学校と、教科担任制度の中学校では異なるでしょう。また、大学においては、研究の重みが違う学部と大学院では、指導教官の対応も変わるでしょう。また、子どもが教師を選べることが出来るのか、否かに依存します。小中高では子どもは教師を選べません。しかし、大学大学院での研究指導では子どもは教師を選べます。それ以外にも、多種多様な要因が影響します。私個人としては、ストレスに対する耐性も影響します(簡単に言えば、研究指導によって健康を害する危険性があります)。つまり、置かれた状況によって、教師は違った判断を下さざるを得ません。でも、どのような状況にあっても、その判断の結果子ども集団に納得してもらう説明責任はあるということは重要なんです。それが納得してもらえているか否かは、その集団の姿に反映します。 例えば、私は、今の西川研究室の健全性に不安を感じていません。もちろん、教師がメンバーが学び合っているか、否か、なんて分かるわけありません。しかし、研究のプロとして、生産される成果の質の判断は出来ます。そして、その質は最高であることは保障できます。不健全な集団が、これだけの質の研究を 、多くのメンバーが出せるわけは、決してないと考えるのが、我々の考えです。

 私は、全ての子どもを、少なくとも授業中は救えるという「夢」を持っています。その夢を実現するには、学び合いと課題達成が矛盾しないという考え方以外にない、ということは一点の迷いもありません。たとえ、上記に書いたとおり矛盾が生じても、その場、その時に考えて、「学び合いと課題達成が矛盾しないという考え方以外にない」と信じ続けたいと思います。

[]出席 15:53 出席 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 出席 - 西川純のメモ 出席 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は大学院の授業で出席を取りません。大学院研究するところであって、授業を聞くところではないと確信しています。聞きたくなければ、聞かなければいいと思います。一方、私の方は、出席をとるから出席するのではなく、出席を取らなくても聞きたいから出席してもらえるような授業をしたいと願っています。私が各地で講演した場合、それに対して過分な講演料をいただけます。もし、タダで授業をやっているのに、来てもらえなかったら、私は講演会詐欺をしているようなものです。

 本日、授業がありました。授業後に、お二方の院生さん(現職院生さん)が、私に欠席届を差し出しました。来週、何かの用事があるため欠席をするそうです。私は、思わずにやけてしまいました。私は、「そんなもの必要ありませんよ。私は出席を取っているわけではありません。出る、出ないはご自身の判断です。」と言いました。しかし、指導教官から出しなさいと言われたということなので、読んだふりをしました。そして、欠席届を受け取らず、「その届けは、ご親戚へのおみやげとしてください」と申しました。

 上記の方針は学部でも同様です。でも、学部の場合は、それなりに出席を意識します。というのは、出席するという日常習慣は学部学生には必要だと感じているからです。それに、出席をとならないと、出席をしている学生さんから文句が出るからです。そうすると、過剰に出席日数のこと心配する学生さんが現れます。その際は、以下のように言います。

私: 君の同級生で、授業に殆どでない人っているでしょ?

学生さん:うなずく

私:君はそう?

学生さん:首を振る

私:だったら、大丈夫だよ

 私としては、出席をとることによって出席させるのではなく、出席を取らなくても出席させるよう頑張りたいと思っています。

追伸 本日、私が必要がない、と言ったのに、指導教官から渡すように言われたと言い、一生懸命、欠席届を渡そうとした二人の現職院生さん。共に、30歳は過ぎていると思うのですが、ものすご~っく可愛ゆく思いました。気持ちとしては、よし、よし、と頭をなぜてあげたくなりました。考えてみれば、その現職院生さんは、私が大学生の時、ランドセルを背負っていたのではないでしょうか?