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2004-06-07

[]号令 13:27 号令 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 号令 - 西川純のメモ 号令 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は集団の教育力を活用します。教師が一人で口を酸っぱくしても出来ないことが、クラス集団によっていともたやすく達成することが出来ます。かつてKuさんから、子どもオムツがなかなかとれなかったが、保育園に入園したら3日でとれるようになった、と教えて貰ったことがあります。原因は、友達にはずかしいとのことです、集団の教育力の凄さを示すエピソードの一つとして記憶しています。

 わが息子も今年から幼稚園です。実感として幼稚園教育力を感じます。歌のレパートリーは、1週間で3、4は増えます。それを、一日中、身振り手振りで歌うようになりました。また、先生の口まねをするので、 幼稚園先生が何を話しているか分かるようになります。例えば、「ごちそうさま」があります。入園前は、私か家内が「ごちさまでした」を言うと、息子がそれを復唱していました。ところが、私たちが「ごちそうさまでした」と言うと、手を合わせて、「おててをパチンと合わせましょう。(間)ごあいさつです。(間)ごちそうさまでした。」と言い出しました。おそらく、幼稚園先生が、年少組のみんなの前で言っているのだと思います。そこで、最近では息子に、「ごあいさつして」と言うようにしました。そうすると、「おててをパチンと合わせましょう。(間)ごあいさつです。」と息子が幼稚園先生のように号令をします。それに合わせて家族3人が「ごちそうさまでした」を同時に言うようになりました。

[]未来 13:27 未来 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 未来 - 西川純のメモ 未来 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は現在の教師主導の教育馬鹿馬鹿しいと考えています。しかし、馬鹿馬鹿しくとも、それが社会一般に根付いているのは、なんらかの理由があるはずだと考えています。馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、どのような理由によって根付いているかを明らかにすることによって、本質的な変革があり得ます。しかし、理由が何故なのか分かりません。教育史を読むと、現行の学校制度は産業革命に影響されているという記載があります。しかし、なぜ産業革命モデル学校制度に適用されたかについては、粗雑な考察しかありません。

 大学院時代、アルビン・トフラーの「第三の波」を読みました。もともとは環境教育との関連で読んだのですが、実に面白く読めました。その当時は、「面白いけど、ほんとかな~」という印象です。しかし、その後の展開は、実にあたっています。彼によれば、従前の世界は、「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」という共通の性質があります。そして、新たな時代は、それの対極である、「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」であるとしています。最近、それを思い出し、もう一度読み直しました。私なりにすっきりしました。

 現行の教師主導を根付かしているものの最大の要因が、学習の最大の手段が、高価で有限な教師であるというモデルに則っているからだと思います。たしかに、印刷物が高価で、それ以外の情報取得の方法が口伝である戦前においては、たしかにそうかもしれません。しかし、印刷物が安価になれば、教師に頼らずとも良質の参考書があります。少なくとも、教師と子どもとの相互作用が限定された現行の指導方法であるならば、下手な教師が教えるより参考書の方が有効です。さらに、テレビ等の情報は、下手な書籍よりも金をかけた情報無料で提供してくれます。さらに、インターネットの普及によって、多様な情報を簡単に取得することが出来ます。教師が「良い教え方」と称しているものの多くは、テキストにすればすむものを、演説したり、板書したりしているだけのことです。私の学び合い研究に対する典型的な疑問の一つに、「教師が教えなければ子どもだけで分かるわけ無いじゃないですか」です。それに対する私のこたえは、「クラスの中には、授業する前から知っている子は何人もいます。その子から聞けば、教師が何にも生まれます。それに、子どもの方が分からない子どもの分かり方も分かりますし、教え方も優れていますよ。それに、教師が教えるようなことはテキストとして、見える場所におけばいいはずです。本当に良い内容だったら、子どもは使うはずです。使わなかったら、教師がかってに「良い」と誤解しているだけのことです。」というものです(ただし、上記の説明は、入門者用の説明です。学び合いの本当の凄さは、その程度のものではありません)。

 第三の波では、旧時代のシステムに慣れ親しんだ人が、新時代のシステムを拒絶する様が描かれています。本当は、学習に有効な手段は教師ではないのにもかかわらず、それにすがりつこうとすると色々な滑稽なことをやり始めます。

1.教科書子どもから取り上げる。

 教科書の数頁先には答えが書いてあるので、その答えを教師が独占するために教科書子どもから取り上げます(法律違反じゃないのかな・・?)。

2.塾・予備校を否定します。

 さすがに、最近は白旗をあげて、「学校には学校意味がある」と言い出していますが、やっていることは塾・予備校と同じことをやっています。

3.インターネットを否定します

 今度の女子児童の殺人事件に関連して、インターネット批判が出ています。でも、どんな方法でも危険性があります。ようは、どう使うかの問題です。

 いずれも、教師が自分だけが有効な学習の手段でありつづけるために抗っている姿です(焚書坑儒と同じです)。ちょっと変わった延命策として少人数学習があります。少人数というと新時代の装いを凝らしていますが、結局、教師主導に過ぎません。重要なのは、どのような少人数を選択する権利が子どもにあるか、教師にあるかです。現行の少人数は教師にあり、旧時代のモデルに従っています。

 以上のことが分かって、すっきり、そして、ホッとしました。時代の力は我にあり。今後、どんどん、子どもたちには安価で、多様で、有効な学習の手段を得られるようになります。その中で、教師が「自分が最高の学習手段だ」と思い続けたら、どうなるでしょう。私は教育実習を筑波大附属高等学校で行いました。偏差値70の子どもたちは、子どもたち 同士で私語をしていました。その私語を良く聞くと、教育実習生が教える内容より高度な内容を教え合っていました。そして、以下のような声が聞こえました。

「ねえねえ、あれ違うんじゃない」

「しょうがないよ、教育実習生なんだもん」

 それが事実であるため、悔しい思いをしました。そのような情景が普通小学校中学校にも普及するかもしれません。インターネット上の情報は、どんどん進化しつつあります。子どもに対して、適切な学習障害を見つけるプログラムも開発されるかもしれません。そして、一人の教師と数十人の学習者との関係では不可能な、一人一人の子に対応した情報提供が可能となるでしょう。そうなった時、教師はインターネットを教室から排除出来るでしょうか?無理でしょう。親が反対します。そして、いてもいいけど邪魔しない程度の声でしゃべってねと、親や子どもからバカにされる状態になってしまいます。おそらく、それ以前の段階で、現状のシステム破綻するでしょう。そう遠い未来ではありません。現在のネックは、ネットワーク地域限定で高価なためです。ブロードバンドが一般化し、価格破壊が起こり、それは無線の世界にも広がったら、現在システムの命脈は断たれたようなものです。そのような時代において教師は教える立場から、目標を与え、評価し、場を設定する役割にシフトせざるをえなくなると思います。