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2004-06-12

[]悩んでいるOB13:20 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日のメモOBの話の「伝聞」を書きました。この伝聞の出所をもう少し説明します。現在M1のIさんが、自分の研究計画を立てる際、似通ったテーマ過去に試みた西川研究室OBの人(Bさん)に相談に行きました。その際、そのBさんが、その人よりも前に修了したOB(Aさん)から聞いた話だと、Iさんが聞いた話です。つまり、OBのAさんがOBのBさんに話した内容を、OBのBさんがIさんに話、それをIさんから私が聞いたという、「伝聞」の2乗になっています。その伝聞を先日のメモで紹介したら、Iさんに話したOBのBさんからメールが来ました。題目は「お話ししていなかったでしょうかね?」という題です。内容は、以下の通りです。

 『メモを読ませたいただきました。それは、今から○年前のことです。西川研究室でやっている研究内容が、私(Bさん)がやりたいこととマッチするか悩んでいるときに、Aさんのメールアドレスと教えていただきました。Aさんの返信内容と私の経験を交えてIさんにお話ししたのです。

 結構、研究をやりはじめた院生さんや学部生さんに飲み会のときに話していたことです。先生にお話ししなくてごめんなさい。

 Aさんからは、「西川研究室は、とても厳しい研究室です。けれども、そこで学んだことがAさんの教師としての指針(考え方のもと)となっている。例えるなら、何もないジャンクルで目的地に行く道筋(ルート)をAさんは大学院では学んだ。しかし、それは最初は昔の人が伝えた道筋である(先行研究などからの知識)。それは、自分自身の物ではないし、自分で体験してないし、確信や自信もない。だから、自分の目的地と道筋を大学院で作らないといけない。でも、現場に戻ると大学院で見つけた自分の目的地は変わらないが、実際の教室では突然猛獣が現れたり(教師のやり方に反発する子どもや親)、地図にはない大きな川や洪水(その時代のはやりの教育技術管理職からの方針など)でできているかも知れない。教師は猛獣に命を取られないように、自分たちの探検隊を守りつつ、大きな川に流されないように川の激流が静まるのを待つか、それとも場所を変えて川に挑むかなど選択させられる。それが教育現場である。そんなときでも、いろいろな障害があり、回り道やその場での停滞を余儀なくされるかもしれない。しかし、大学院で学んだ目的地に向かう一人一人の道筋を大きくはずれることはない。厳しいながらも、研究室の仲間との語り合いや発表を通して自分がものにした経験に基づいているから。だから、道筋を少し反れるけれども必ず自分の定めた道筋に戻るからね。一人一人違った目的地と道筋の記された地図を作ることが大学院の2年間でした。だから、大変だけど2年間がんばって」のようなことを教えていただいた気がします。(この解説や例えは 私が加えたものがあります。でも、大筋はこんな内容でした。)

 今の自分が大学院卒業して、Aさんと同じような心境です。だから、Iさんには語ってしまいました。西川先生健康に気をつけられて、さらなるご活躍を心からお祈りしています。今週は、○○に修学旅行の引率です。

 それではまた、B』

 私の返信は「ありがとう同志。可視化します。」でした。この話をIさんから聞いた時は、「なんで、Bさん、こんなウルウルするような話を教えてくれなかったの?」と思いましたが、どうも、Bさんにとっては当たり前すぎたようですね。でも、西川研究室を修了した院生さん、学生さんから、自分が目指している姿と現実のギャップに悩んでいるメールを頂くことがあります。中には、ガンガンに教師が出しゃばっている自分の姿を自己モニターし、嫌悪感にかられ、自身を責めるようなメールをもらう場合があります。でも、そんなメールを頂いた時は、必ず、「我々の考えを理解しているあなたが、そういう判断をしているならば、その状態において最善の判断であると信じています。」と返信しています。そして、焦らないでと言います。そのような方へは、上記のOB言葉は勇気を与えるものだと思います。それ故、可視化しました。

悩んでいるOB各位へ。あなたが悩んだことは、あなたが最初に悩んだことではないし、あなたが悩む最後の人ではないと思います。しかし、必ず目標に達します。学部・大学院で多くを学ばずとも、心穏やかで、楽しい時間を過ごすという選択も出来ます。そして、それによって癒され、現場に戻ることもできます。そのことはとても大事だと思います。しかし、そのような選択をした場合、結局、以前の自分に戻ることは出来ますが、以前の自分以上になることは出来ません。 しかし、皆さんはそれを選択しなかった。

 学部・大学院で、書籍のような二次資料を通して学ばれたり、教材に着目して研究をすることも出来ます。しかし、それでは「言葉」が無意味に踊ってしまうでしょう。例えば、我々が大事にする「子どもは有能である」という考えも、それを否定する教師は少ないと思います。しかし、それは単なる言葉レベルで同意しているだけのことです。それゆえ、「子どもは有能である」と言った口先も乾かないうちに、「子どもは無能だ」という前提に基づく指導を平気ですることが出来ます。我々は子どもを、そして教師を徹底的に見ます。それも長期間に、そして、全ての子どもを見ます。それゆえ、「言葉」の意味するものを示す、子どもや教師の膨大な情報を、直接の経験を通して得ることが出来ます。それゆえ「言葉」は常に、現実子どもや教師と遊離しません。

 それゆえ、迷っている時でさえ、皆さんが有能であることを疑いません。仮に西川研究室の考えに反する行動をしているとメールされるときもです。