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2004-07-21

[]天狗の鼻 08:20 天狗の鼻 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天狗の鼻 - 西川純のメモ 天狗の鼻 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもに対する評価は自分に対する評価です。

 大学院での講義の評価のため「心の教科指導」を読んでレポートを書かせました。多くは勉強になるものでしたが、一つ、とてもグサッとなるレポートがありました。つまり、ものすごく勉強になるレポートです。その先生は、問題の多いクラスを担当し、もがいた経験を書かれていました。読んでいて、壮絶なものでした。その中に、次のような一節がありました。

 『本屋さんで、役に立ちそうな本を何冊も買いました。法則化の本は役に立ちました。観念的な内容が多い教育書の中で、具体的な方法や指示が書かれている本は、溺れるものにとっては何よりの助けになります。本に載っていることで、できることは何でもしました。』

 そして、最後の方に、次のような一節がありました。

 『私は、この本をクラスが荒れて困っている時に買いました。「心の」というタイトルに惹かれました。しかし、そのときは、ぱらぱらとページをめくっただけで終わりました。「・・・かもしれない」や「・・・と思われる』では、特効薬にはならないからです。(すみません)』

 このことは、よ~~く分かっているし、そのことは折り込み積みでしたが、改めて読むとガクッとなりました。何とも書きましたが、私はテクニックの有効性は十分に理解し、評価しています。でも、その限界も知っています。そして、本当に改善するためには、テクニックではなく考え方が重要だと思います。法則化の本でテクニックを書かれる方の多くは、テクニックの先にあるものを知っているのだと思います。読まれている方は、それを理解して読んでいると思います。しかし、溺れている人には、それが見えず、テクニックが最終的なゴールのように誤解してしまいます。それゆえ私は、意識してテクニックを書かないようにしています。

 このレポートを書かれた先生を心から同情します。しかし、私は思います。この先生を救えるのは、本にあるテクニックではなく、この先生を守ってくれる教員集団だったはずです。それゆえ、テクニックにのみ走ってしまったのだと思います。そう言えば、この部分は語ってなかったな・・・と気づきました。

 講義でいい気になって語っていた私の天狗の鼻が「ポキン」と折れました。

追伸 レポートに関しては公表するかもしれないから、公表してもいいように書いてね、と宣言して課したレポートです。(蛇足ながら)

[]天狗の鼻(その2) 08:20 天狗の鼻(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天狗の鼻(その2) - 西川純のメモ 天狗の鼻(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先のメモに書いたと同じレポートに、先よりもずっと鼻を折る部分がありました。

 その先生が、もがきにもがいていた最終段階のことです。以下のように書かれていました。

 『3年生の秋ぐらいになると、「もういいや」という気持ちになりました。1年生の時の争乱状態を考えれば、ほぼ普通に授業や話が出来るようになったのですから。半分は諦めにの気持ちがありました。「もういいよ。俺はよくやった。あとは、高校への進路が決まればいい」

 授業の準備はそれまで通り、一生懸命にやりました。ただ、以前と違うのは、一挙手一投足にいたるまで考え、生徒達にも細かく指示を与えていたのが、「はい、やろうね。わからなければ教科書を見て、班の人と相談して」と生徒達に任せるようになったことです。(多少、面倒くさくなっていたのかもしれません。)

 あるとき授業中に急ぎの用があって、職員室で仕事をしてから戻ってきたことがあります。それまで遊んでいたものを、教師がきたからといってぱっと席に戻ったりしても、すぐに雰囲気でわかりますよね。しかし、そのときは私が理科室に戻っても淡々と班ごとに実験を進めていました。けっして面白い実験ではありません。同じような操作を繰り返して測定するだけのものです。それを実に楽しそうに行っているんです。うまく言ったと言っては笑い、失敗したと言っては笑い。私は、ただ黒板の前の教師用の机に座ってみていました。机間巡視もしませんでした。淡々と授業が負われいました。

 翌日の生活ノート(日記です)に、ある女の子が書いてきました。

 「最近、理科の時間が面白いです。実験が多いし、みんなでやっていると楽しいです。」と。

 私はそれまでも、実験中心の授業でしたが、そのように書かれたことはありませんでした。

 その頃から、生徒達だけでいろいろな話が決められ、進められていきました。(中略)

 クラスが良い方向に向かっていった直接の原因は分かりません。おそらく、複合的であろうと思います。』 

 これを読み終わって、いい知れない虚脱感を感じました。西川研究室、OBなら、なぜだか分かるよね。

 この先生のクラスで起こったこと、いや、起こらせることを研究しているのが我々なんです。我々は、その原因を明らかにしています。そして、私は十数回の講義をかけて、それに関することを語っていました。ところが、その十数回の講義を聴いたこの先生は「原因は分かりません」と無邪気に書かれています。

 深く、深く、反省します。

[]天狗の鼻(その3) 08:20 天狗の鼻(その3) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天狗の鼻(その3) - 西川純のメモ 天狗の鼻(その3) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 蛇足ながら、分からない人も多いと思うので、天狗の鼻(その2)の簡単な(本当に簡単な)種明かしをしたいと思います。

 あのレポートを書いた先生は『けっして面白い実験ではありません。同じような操作を繰り返して測定するだけのものです。それを実に楽しそうに行っているんです。うまく言ったと言っては笑い、失敗したと言っては笑い。』と書いていました。また、『「最近、理科の時間が面白いです。実験が多いし、みんなでやっていると楽しいです。」と。  私はそれまでも、実験中心の授業でしたが、そのように書かれたことはありませんでした。 』と書いていました。そして、そのことをとても不思議がっていました。この先生は、理科教師が理科の授業で冒しがちな過ち(そして国語教師が国語の授業で冒しがちな過ち、そして社会科教師が・・)を冒しています。

 第一に、自分が面白いと思うものと、子どもが面白いと思うものが同じだと思っています。本当は、その道の専門家と、初心者では見るもの聞くものは違うし、興味・関心の対象が違います。しかし、どうも自分が面白いものは、他人も面白い(面白くあるべき)だと誤解しているようです。教師には陳腐に見える実験であっても、子どもにとっては新鮮な実験の場合は少なくありません。だって、試験官を振るだけでドキドキしている子は少なくありません。

 第二に、子どもはその教科を学ぶという意味以上に、人と関わるということを目的にしています。このことは自分の学校時代を思い出せば、あたりまえすぎるほどあたりまえなんですが。我々は何を楽しみに学校に行ったでしょうか?国語・社会・・・を学ぶことを楽しみに学校に行ったでしょうか?逆に、悩んでいる子どもは何に悩んでいると思います?でも、教師になると忘れてしまうんですね。

 特に、第二の点が重要なんです。その先生のクラスに起こった変化の本当の原因は『以前と違うのは、一挙手一投足にいたるまで考え、生徒達にも細かく指示を与えていたのが、「はい、やろうね。わからなければ教科書を見て、班の人と相談して」と生徒達に任せるようになったことです。』からなんです。子ども達が、互いに関わることが出来るようになったからです。そして『生徒達だけでいろいろな話が決められ、進められ』るようになったからなんです。

 その先生は『多少、面倒くさくなっていたのかもしれません。』と謙遜されます。しかし、違うと思います。単に放り出したならば、子ども達は遊び出すはずです。ところが、子ども達が勉強に向かったのは、その先生が3年間かけて子ども達に目標を与えていたからだと思います。そしてクラス集団を作ったからだと思います。素晴らしいことです。その先生は、熱意があり、力のある先生だと思います。このことをちゃんと分かっていれば、もっと凄いことが出来たと思います。そして、もっと早く子ども集団を変えることが出来たはずです。逆に、上記のことを分かってもらえなければ、もう一度、同じ状況に陥った時、また、同じような対応をするでしょう。そして、私はその先生に、上記のことを伝えることが出来ませんでした。だから、自分の無力を恥じます。上記のことを、一人でも分かってもらいたいと思い、可視化します。

追伸 もしかしたら、その先生がこのメモを読んでくれるかも知れません。そして分かってもらえるかも知れません。