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2004-09-17

[]不自由と孤独 13:41 不自由と孤独 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 不自由と孤独 - 西川純のメモ 不自由と孤独 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 一人暮らしが15年、結婚して11年たちます。結婚するか否かの分かれ目は、不自由と孤独のどちらかを選択するかだと思います。15年間の一人暮らしの時代、自由時間は完全に私の自由です。学生時代は謳歌しましたが、就職してからもてあましていました。大学に異動してから、おそらく平均的な教科教育研究者の一生かかる研究業績を、毎年上げ続けていました。しかし、それらは勤務時間内には終わりました。そして、仕事以外の膨大な時間を、自分の時間を楽しく過ごせる才覚は私にはありませんでした。一方、孤独というものは日々増すものです。人付き合いの苦手な私は、どうも多くの人と関係を結ぶのが苦手です。結婚すれば自由は制限されます。しかし、一人暮らしの時間に真剣に悩んだ私にとって、現在の不自由は喜んで受け入れています。

 でも、すべからく人は結婚すべきだとは思いません。自由な時間を一人で有効に過ごす術を知っている人、また、多くの人と関係を結ぶのが得意な人の場合、独身も素晴らしい選択肢です。一つ気になることがあります。若くして結婚し、孤独という時間を過ごさなかった人の場合、現在の不自由は、孤独との二者択一であることを自覚しない場合もあるのではと思います。長い孤独な一人暮らしの生活の記憶が鮮明な私は、一瞬たりとも、独身時代に戻りたいなどとは思いません。せいぜい、「こまったな~」とか「もうちょっとなんとかならないかな~」程度です。どんなときでも。

[]プライバシー 13:41 プライバシー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - プライバシー - 西川純のメモ プライバシー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家内の実家に里帰りしてから、しばらく息子がトイレを嫌がりました。家に帰ってからトイレ訓練を再開し、なんとかトイレを嫌がらなくなりました。それどころか、最近は、トイレに行きたがります。そして、食事の途中で「トイレ行きたい~」と言い出すことが度々で困ってしまいます。2週間前からある変化が現れました。それはトイレのドアです。以前は、ドアを開けて、我々が見えるようにしていなければ嫌がっていました。それが、2週間前から「ドア締めて」と言うようになりました。さらに、自分でドアを閉めるようになりました。彼なりのプライバシーが生まれたようです。

[]学び合いが成立しない条件 13:41 学び合いが成立しない条件 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合いが成立しない条件 - 西川純のメモ 学び合いが成立しない条件 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の修士1年の学年ゼミで、学び合いが成立しない条件が話題になりました。そこで、メモしたいと思います。私の知る限り、どんな教師でも学び合いが成立させられない、もしくは、極めて困難な状況は3つしか知りません。第一は、子どもが一人だけである。これでは学び合いは無理です。相互作用には相手が必要ですから。第二は、期間が短い。学び合いは文化です。旧来の教師中心の文化の中に生きていた子どもたちに、直ぐに成立させることは出来ません。最低2週間、まあ4週間は必要です。第三は、ちょっと複雑です。

 子どもがクラス以外の集団に準拠し、その集団の目標が、クラスの目標と矛盾する場合です。分かりやすい例で言えば、暴走族に属している子どもがそれにあたります。教師がクラスの中に学び合いの文化を成立させるには、その教師が学び合いの文化を自分のものとしていることはもちろんですが、まず、子どもたちにとって管理者(もしくはボス)と認識させる必要があります。人間は群れる生物です。群れからポツンと離れた状態の子どもであれば、その子どもに適切な群れを提供すれば、早晩、その群れの中に混じるはずです。ところが、別な群れに入っていれば、ことさら群れに入る欲求は起こりません。そして、その群れの目標が、クラスの目標と矛盾するならば、積極的にクラスの群れにはいることを拒否します。教師は、自分の群れ以外の子どもに対しては管理者としての力を発することは出来ません。

 最後に、子どもが赤ん坊である、というのも候補かも知れません。もしかしたら可能かも知れませんが、少なくとも私の手元にある情報では幼稚園以下の情報はありません。まあ、DNAの中にあるのだから絶対に無理だと言うことはないとは思いますが、おそらく学び合わせるよりも、親子の関係を成立させる方が先決だと思います。それに親子の関係も学び合いと捉えれば、これは不可能な条件とは言えなくなります。したがって、どんな教師でも学び合いが成立させられない、もしくは、極めて困難な状況は3つということになります。

追伸 「子どもがクラス以外の集団に準拠し、その集団の目標が、クラスの目標と矛盾する場合」に対応するにはポズナーらの概念変容のモデルが参考になります。彼らのモデルは科学概念が変容するにはどのような条件が必要かを示すモデルですが、先の問題解決にも有効です。彼らによれば、我々が概念変容するためには、以下の4つ条件が成り立つことが必要です。

・先行概念への不満が生じなければならない。

・理解可能な新しい考えが、利用可能なものでなければならない。

・新しい考え方は、もっともらしくなければならない。

・新しい考え方は、先行概念より生産的でなくてはならない。

 これを暴走族の場合に当てはめますと、以下のようになります。

・暴走族への不満が生じなければならない。

・クラスが受け入れ体制がととのっていなければならない。

・クラスが良いクラスでなければならない。

・クラスは暴走族より生産的でなくてはならない。

 暴走族のような反社会的な集団の場合、子どもにとって色々な不都合が生じます。それに暴走族が悪いな~ということは、心の中では理解しています。だから、暴走族に属している子どもに対して、学び合いのクラス(つまり受け入れ態勢の整った良いクラス)を提供すれば、もしかしたらクラスに戻るかも知れません。難しいのは反社会的でない集団に依存している場合です。具体的には、例えば塾・予備校です。つまり、塾・予備校で勉強しているから、クラスをバカにし、クラスメートをバカにし、教師をバカにしている場合です。この場合は暴走族より難しいと思います。まず、その子の目標が「受験」に限定された場合、「不満」も生じませんし、「塾・予備校の方が生産的」とも言えます。従って、目標を変える段階からしなければなりません。でも、本当にそうすべきか悩むところです。

追伸2 ポスナーの原典は「Posner, G., Strike, K. A., Hewson, P. W., and Gertzog, W. A.: Accommodation of a Scientific Conception: Toward a Theory of Conceptual Change, Science Education, 66(2), 221-227, 1982.」です。邦訳だと、理科学習の心理学(東洋館)にのっています。理論自体は構成主義のごく初期の論文の一つで古いものですが、今でも役に立つ理論です。

[]言葉が踊る 13:41 言葉が踊る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 言葉が踊る - 西川純のメモ 言葉が踊る - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は本学の院生さんがやる、教育における理論研究(おおくの方法論は文献研究)の大部分の価値を理解できません。自然科学においても理論物理学のような理論研究があります。また、社会科学においても、理論経済学などの理論研究があります。したがって、理論研究だから意味がないとは思いません。しかし、教育における理論研究が、理論物理や理論経済学に比較して、決定的に 欠けている点は現実との接点です。理論物理学は実験物理学が対になっています。また、理論経済学の場合、現実の経済統計と対比され、さらに実際の経済政策に反映されることによって、その妥当性が評価されます。理論物理、理論経済学の言葉は、つねに現実の現象と結びつけることが出来ます。残念ながら、私の見聞きする本学の院生さんの理論研究にはそれらが見えません。それらは、過去の文献を引用しつつ、言葉を定義し、その言葉によって別な言葉を定義します。その連鎖の中で、ある言葉の一群を生産することに終始しています。しかし、それぞれの言葉と現実との対比がありません。具体的には、その言葉の一群を利用した論理によって引き出される結論が、現実の教育現象と対比することによって評価される段階を全く欠いています。

 そのような修士論文の発表を聞いていると、私の大学の学部の自分を思い出します。学部の1,2年の時、私は数学にのめり込みました。解析学、線形代数学に始まり、群論、位相空間論・・とより抽象度の高い数学に興味が移りました。現実のゴチャゴチャに縛られない、シンプルな世界が私を虜にしました。とにかく、その世界の中では完結しています。その世界にいる限りは、その世界の限られたルールを駆使すれば解決できます。そして、頭の中で全て操作できるので、「楽」なんです。しかし、学部の3年にその世界から離脱しました。なぜなら、私の本当の興味は現実の世界にあり、数学の世界は現実の世界を理解するには限られた力しかないということに気づいたからです。修士論文発表会で、難しげな言葉を羅列し、そして、現実の教育現象との対比がない研究をしゃべっている院生さんを見ると、「あ~、あのときの自分 が陥っていた、あの快感に浸っているんだろうな~」と思います。でも、数学の世界の方が、教育の理論研究より数段上のように思います。だって、私の知っている位相空間論と、ドイツの人が考える位相空間論は同じです。ところが、ある院生さんが考える教育理論が、別な人(極端に言えば同じ研究室の院生さん)と同じとは思えないんです。なぜなら、第一に、基礎となる公理が一般性がありません。例えばユークリッド幾何の場合、位置があり、面積がないという点という極めて単純で一般性が高いものを出発点にしています。ところが教育における理論研究は、なにを基礎としているのかさえ曖昧です。過去の文献を引用しつつも、悪く言えば曲解しているのでは、と疑いたくなるような引用もあります。さらに、一つ一つの論理の展開が飛躍が多く、まず、結論があり、それに誘導する様が見え見えです。「観察の理論付加性」の考えから言えば、「まず、結論があり、それに誘導する」のは研究の常態で、ことさら非難されるべきものではないかも知れません。しかし、科学においては、現実の現象と対比することによって、暴走が止められます。ところが、現実の現象との対比がないならば、その暴走は止められません。

 まあ、学問というラテン語の語源は「暇」という意味ですから、本人が気持ちよくマスターベーションしても結構でしょう。でも、私は人様のマスターベーションを見る趣味も、暇な時間もありません。でも、一方、上記の私の記述が誤りであり、自分が愚かだった~とウルウルするような研究に出会えることを期待しています。