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2004-10-07

[]OBの実践 13:18 OBの実践 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - OBの実践 - 西川純のメモ OBの実践 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日、あるOBより「メモを読んで」というメールを頂きました。とてもためになるので、可視化します。

 『今日のメモを読んでいて、似たような実践をしましたので紹介します。

 5月ごろ、やっと話が聞けるようになってきたので、子ども達に挑戦状をたたきつけました。「これからテストを行います。どんなことをしてもいいので、全員が100点をとれば 君達の勝ち、1つでも間違えたら皆さんの負けです。どうです?この挑戦受けますか?」というと、「本当に何してもいいんだね!だったら簡単だ!」と、直に受けてくれました。「これからテストを印刷してきますので、それまでの間、作戦会議でも行っていてください。」と言って教室を出ました。戻ってくると、それまで話し合うなどということは1度もなく、男女はいつも背中合わせでしたが、このときばかりは、全員が話し合いを必死に行っていました。テストを始めると、全員が一斉に解き始めました。暫くすると解き終わった子たちが前に出てきて答え合わせを始めます。腕白坊主が、急に出てきて一致した答えを黒板に書き、「この答えとあわせて!これで間違いないから!」、「どう?先生!これでこの勝負、俺達の勝ちでしょ!」と言われたとき、私は嬉しくてニコニコしていました。すると、一人の女の子が、「先生がこんなに簡単な問題を出す訳がない。あんなにニコニコしているもん。何か引っ掛けがあるんじゃない?」と、皆に呼びかけます。直に全員が答案用紙をじっくり見直します。「単位は付いてるかあ?」全員がお互いの答案を確認し合います。「間違いない!」この他にも「矢印でここは書こう!」とか、「字を間違うと減点されるぞ!」等の意見が出され、1つ1つが確認されていきました。普段算数の苦手な子には、数人がかりで教えています。結果は、残念ながら一問間違えてしまいました。数人の子から、「あ~あなんだよ!」という声が聞こえましたが、それに対して数十人の子ども達から、「ドンマイ!しょうがないよ。何でそんなこと言うんなよ!」と反論があり、それ以上攻める子はいませんでした。でも、全員が悔しいようで、「もう一度やらせて!」の声が絶えませんでした。数日後、単元終了時にテストを行いました。平均点は73点でした。

 「また、挑戦状を出したいのですが、受けますか?」

 「やるやる~!」

 「今回はちょっとやり方を変えます。今回のルールは、このテストと全く同じテストをもう一度一人一人行います。テストですから。そのテストの平均点が85点以上なら君達の勝ちです。そのかわり、テストの前に教え合ったり、復習する時間を1時間差し上げます。どうです?この挑戦受けますか?」「全く同じ?」「教えてもいいの?」「テスト前ならね!でも、テストは一人一人で行います。」テスト前の1時間は、まさに学び合いそのものでした。この辺りから、学習自体が一気に変わってきました。

現在はというと、何故か手作りのプリントを「挑戦状」と呼ぶ子が多くいますが、小テストの平均は殆ど90点以上です。昨日は新しい単元に入ったこともあり、87点でした。すると、「先生、ちょっと時間ちょうだい!」の声。「15分でお願いします。」自然と学び合いが始まり、「わかった!」「何かいい感じ!」等の声が聞こえてきます。

 「もう一回やってみる?」

 ○付けは教師が、平均点は子ども達が行います。96点でした。当然問題は最初のとは違います。4月当初、九九のできない子が8名もいました。今は全員が整数の割り算がほぼできます。しかし、私が指導したのは一人に1~2回程度で、後は子ども達が教えあっていました。

 余談ですが、1学期の水泳指導では、泳げる子と泳げない子で組みを作りました。そして学年の目標を「全員が25m泳げること」としました。教え合う時間を十分にとったところ、当初25m泳げる子が40%だったのが、1学期末には90%を越えました。そのうちの85%は50m以上泳げるようになりました。

 身体は辛いですが、毎日楽しんでいます!』

 私からの返信は以下の通りです。

『有り難う同志!

 読みながら、○○さんがクラスから離れたくない気持ちがよく分かります。でもね、目標を与え、環境を整えれば、大人だって同じように活動するし、その様子は、可愛ゆく見えますよ。もう降参しなさい!体が「もう子どもと一緒に動くのはつらいよ~」と言っています。年齢にあった働きというのはありますよ(「年齢ごとの目標」というメモを参照のこと)。

  自分より年上の○○さんを可愛ゆく感じる、元指導教官より』

[]それなりの納得 13:18 それなりの納得 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - それなりの納得 - 西川純のメモ それなりの納得 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 実は、この二日間、納得できないことがありました。それは、二日前のメモに「「先生、駄目です~」と降参したならば、暖かく、優しく受け入れてあげますよ。うちの研究室の課題が、高度で、大変なのは、他の誰よりも私は知っています。降参したとしても恥じることは全くありません。そして、そういったときに、援助し、慰めるのは私の仕事です。」と書いたことが間違っているのではないか、ず~っと気になっているんです。おそらく、普通の先生だったら、そんなことは当たり前かも知れません。でも、それを書いたことに「罪悪感」を感じているんです。

 我々の考え方によれば、学習者の問題を本当に解決するのは学習者です。学習者の問題を教師が介入することは、学習者同士のネットワーク形成を阻害し「悪い」ことなんです。だから、上記のように書くことは「誤り」です。でも、教師の直感で、「正しい」と感じます。だから、なぜ「正しい」と感じたのか、そして、学習者のネットワークを阻害するという「誤り」に繋がらないためには、どうしたらいいのか、それが気になってしまいませんでした。でも、私なりの解答を得ました。

 まず、教師に最終的な解決策を学習者が求めてきた時、それは教師の「負け」です。本当に、目標が適切であり、かつ、学習者のネットワークが形成されたのならば、学習者は教師に最終的な解決策を求めたりはしないはずです。さて、「負け」た場合です。集団の管理者としては、そのようなことが起こった集団の関係を分析し、それを解決するような関係を考えなければなりません。さて、問題は、その子です。最終的な解決策を求めた子どもをどうすべきだという点です。一つの解決策は、その子を「切る」という方法です。でも、それはいい方法ではないと教師の直感が言います。でも、最終的な解決策を教師が出そうとしたならば、それは「出来ない」ことだし、そうすることは「誤り」です。ではどうするか?それが、私の悩みです。

 私なりの回答は、最終的な解決策を求めてきた時、受け入れ、癒し、自分なりの解決策を提案することは誤りではないと思います。ただし、教師である私の解決策は最終的な解決策ではない、ということを忘れないことがポイントです。そして、あくまでも本当の解決策は学習者集団にしかないと自覚し、その子ではなく学習者集団を改善する努力を忘れなければ許される範囲内ではないかと思います。

 もう一つ、気になることがあります。最近は、M2の皆さんに「ダメ」と突き返す自分を醜悪だと自覚しています。目の前には、学習者集団があり、ところが、その学習者集団の相互作用を無視して、一刀両断でダメ出しをします。本当だったら、ニコニコして学習者集団の相互作用によって解決すべきなのかも知れません。でも、評価の段階なのですから、教師が一刀両断にしても良いのかも知れません。と納得しました。でも、この納得は本当の納得ではありません。私が下す評価に関しては、ちゃんと公開しています。例えば方法論に関しては「実証的教育研究の技法」に明らかにしています。そのレベルのことに関して、ダメ出しをするということは、教師としての私の「負け」ということです。これで納得しました。このことに関しては私が間違っていると私の直感が言っているのは、このことだと思います。つまり、評価段階で教師が学び合いでなく一刀両断にすることは正しいと思います。ただし、一刀両断にすることが、すでに公開していることと、公開しうるレベルのことであるならば、私の「負け」なんです。

 ということで、自分の能力のなさを反省しつつお願いします。「負け」させねいでね。お、ね、が、い。

[]完全フレックス 13:18 完全フレックス - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 完全フレックス - 西川純のメモ 完全フレックス - 西川純のメモ のブックマークコメント

 博士課程は完全フレックスが可能です。完全フレックスというのはなんだか分かりづらいかもしれませんが、簡単に言えば、大学に行かなくて学習できるという履修方法です。授業は夏休み・冬休みの集中講義で履修でき、日々の指導は電子メール等で行います。現在、その方法で問題なく動いています。でも、もし、修士課程でもそれが起こったら、と想像しました。

 うちの研究室の場合、学校現場にべったりひっついています。そのことから、従来のように上越の大学にべったりいなければならないという履修形態はナンセンスだと思います。だから、完全フレックス修士ということはありえることです。実際、修士課程の幾つかの科目の運用をちょっとだけ変えれば、それは可能です。それが実現すれば、家庭の理由から、上越に来られない人も 、現任校で勤務をしつつけた状態で大学院で学ぶことが出来ます。iまた、西日本の県のように、上越教育大学に公的に派遣されることが不可能な場合でも、本学で学ぶことが出来ます。 実際は、現状でも完全フレックスに限りなく近い状態は実現できますし、我々の研究室においても、その状態で修了された方はいます。

 でも、本日、ふと思いました。もし、うちの研究室の院生さんが全員、完全フレックスだったら・・。もし、全国の都道府県の派遣形態が、完全フレックスを前提するようになったら・・。色々考えましたが、私の答えは、そうなったら上越教育大学をやめ別な大学に異動しようということです。そして、現職再教育から離れ、可愛い学部学生相手に研究指導はしないで面白おかしい授業をして暮らそう、と思いました。理由は、そういう状態になったら文化の伝承は成立しないと思うからです。もしかしたら、私が古い人間なのかも知れませんが、文化の伝承には、無駄な時間を含んだ長い時間が必要だと感じます。そして、無駄な情報を含んだ、膨大な情報の伝達が必要です。インターネット上の情報量では、それは実現不可能であると思います。ということは、今実現できる高レベルの研究室文化は成立し得ない、ということです。博士課程に関して、うちの研究室でそれが可能なのは、文化の伝承が既に終わっている人を受け入れているからです。

 私としては、完全フレックスを実現する努力をしようと思います。でも、私の研究室において完全フレックスが主流になり、それが制度的に固定されると判断した瞬間に、上越教育大学を異動する算段を本格化することを自覚しました。

追伸 自分の負ける状態を想像することは辛いですが、そうすることによって負けない算段も出来ます。