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2004-11-06

[]目出度い 12:52 目出度い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目出度い - 西川純のメモ 目出度い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、Yzさんの奥様が女の子を出産されました。目出度い!日付から考えて、旦那さんが大学院に派遣されてから、奥様が文字通り、身を削りながら大きくした子どもです。私がプレッシャーを与える前に、ご本人から、「妻が結果を出したので、私も出します」という言葉を賜りました。2年間で一千万円以上の投資を受けて派遣されたのですから、それに見合う成果を出してくれると「期待」しています。とあいえ、生涯において、一番にゴマをするべき相手は、県でも、ましてや私でもなく奥様です。生む前より、生んでからが奥様が大変です。結果を出すのに手を付けるのが1週間遅れようが、2週間遅れようがたいしたことはありません。

追伸 いつ修士論文に手を付けても、結局、帳尻あわせをするのは、ご当人なんですから。(お~怖い)

[]ウルウル 12:52 ウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ウルウル - 西川純のメモ ウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教員採用試験に合格した学生さんから、勤めてからのことを聞かれる時、色々と「お説教」をたれます。その中に、初任校はとても大事だと言います。そこで、手を抜くことをすれば、それからの教師人生、ず~っと手を抜くことになるでしょう。そこで、苦しくてももがけば、その後の教師人生でも、もがきながらがんばれるでしょう。初任校で数年すごせば、それなりに1年をすごすすべを得ます。そうなれば、その後の教師人生、何とかそのくりかえしで生き抜くことが出来ます。となれば、ことさら別な生き方をすることは無くなるでしょう。もちろん初任校で形作られた型をうち破ることは不可能ではないでしょう。でも、本人の意思の力と、劇的とも言える出会いが必要です。

 私の初任校は定時制高校です。そこで、暴走族、境界児童、不登校児を教えました。その過半数は、中学校でオール1(混じりっけ無しです)であり、また、家庭に事情のある子どもです。一方、先輩教師にはめちゃくちゃ恵まれました。そこで私の基本形が形作られました。定時制の後は上越教育大学で過ごしています。定時制教師としての時間は、大学教師としての時間の約十分の1です。でも、私の基本形は、いまだに定時制教師の時と同じです。思考方法の基本形は色々あると思いますが、その一つが「出来ないのは許す、でも、やらないのは許さない」というものです。

 定時制高校の子ども達は、色々な事情を背負って学校に来ます。知れば知るほど、苦しくなります。それ故、知ることを恐れるようになります。ところが、その子ども達は学校では、それなりに時間を過ごしています。自分には出来ないほどの強さを持っているんだと、オール1の子ども達を見ることになります。そして、尊敬します。もちろん、学業的には達成度は低いものです。でも、彼らの状況を鑑みれば、その低い達成度であっても、自分には出来ない達成度に見えます。だから、出来ないからといって否定する気にはなれません。

 ところが、学校の職員として、一定のレベルに達しなかった子どもを「切らなければ」なりません。その子の状況を鑑みれば、とても切れると思えません。しかし、切らなければなりません。切って、その子に良いことがあるなんて、思えません。でも、「良い教師」を演じながら、その子どもを切らなければなりません。社会において「中卒」と「高卒」では、収入が違います。その収入の違いに妥当性を与えるように、卒業者には一定の達成度が必要だと思います。それを捨ててしまったら、学校教育の意味がありません。今、大学教師として学生さんとつきあいます。どう考えても、私が高校教師で教えた子ども達より、圧倒的に恵まれた状況です。その学生さんは、定時制高校の子ども達より、圧倒的に安易な方法で「大卒」という学歴を得ます。そして、その責任の一端を私が負います。定時制高校の子ども達を思い浮かべると、とても、申し訳なく思います。それ故、定時制高校における基準と同じ基準をせめて保持しています。それが、「出来ないのは許す、でも、やらないのは許さない」というものです。もし、その学生さんが、私が与えた課題に関して一生懸命にやって出来なければ、それはしょうがないと思います。そして、それをフォローすることは教師のつとめと思います。この考えは、今の「学び合い」の考えと矛盾するかも知れませんが、そのハートは今でも捨てられません。でも、私が与えた課題に関してやらない場合、その結果がその人にとって辛いものであっても、それを評価するのは私のつとめと思っています。一方、私は、一生懸命にやっている人が大きな壁にぶつかり、それを悩んでいたら、「大丈夫だよ」と言います。そして、その壁を乗り越える方法を一緒に考えたり、その限定の中でも素晴らしいものが出来ることを語ります。

 本日、とても嬉しいことがありました。とても、とても、苦しい状況にあり、一生懸命にやっている人がいます。私は、その壁を越えなくてもいいよ、と語りました。ところが、その人から、「本日のメールには、結果を期待しているよという部分がありませんね。結果を期待してください!」というメールを頂きました。私は、本や講演で教師の仕事は、「目標の設定・評価・場の設定」であると言っています。しかし、学習者の中に目標と評価が内在化したならば、少なくとも個々人の「目標の設定・評価」はいらなくなる と思います。教師の最終的な姿は、自慢する相手であり、動きやすい場を保証する人になるのだと思います。そして、それは、個々の学習者同志が目標が互いに矛盾し合わないような目標を設定することにつきると思います。

追伸 私はいつもニコニコしています。私は怒りませんし、面白おかしく、ためになる授業をやります。でも、西川研究室に入れば、そのニコニコが単に面白く・甘やかしているのではないことが分かります。「期待しているよ」が怖くなります。でも、その先には、その恐ろしい「期待しているよ」を求めるようになるんです。だって、私が「期待してる」ことは、私以上にご本人が期待しているんですから。