■ [ゼミ]「期待しているよ」は怖くない
我が研究室のメンバーからは「期待しているよ!」と言われるのは怖いといわれます。この感覚は我が研究室において「期待しているよ」の洗礼を受けた人でないと分かりにくいと思います。分かりにくい人に、あえて説明すれば、「期待しているよ」ということで、やらねばというプレッシャーがかかるのです。「ここまでやりなさい」ならば、それをやればいいのですが、「期待しているよ」の場合は、どこまでやるべきかは自由裁量です。低く抑えることも出来ますが、「期待しているよ」と言われると、それも出来ません。ということで、「ここまでやりなさい」よりプレッシャーはきついとも言えます。
でも、あまり怖がられている一方では、ちょっと悲しいので、ちょっとメモりたいと思います。
私もかっては院生であり、指導教官から期待されていました。働いてからは、上司や先輩から期待されていました。でも、それをプレッシャーだとか、怖いだとか思ったことはありません。だから、私の場合はニコニコしながら「期待しているよ」と言えます。それでは、なぜプレッシャーだとか、怖いと思わなかったかを自己分析しました。
第一に、期待されていることは、私自身が期待していることだからです。つまり、自分がこうなって欲しいと願っていることを、他の人も願っているんですから、怖いわけあるわけありません。第二に、期待されていること以上のことが出来る可能性が高いと予想しているからです。我が研究室の場合、第一の条件はクリヤーしていると信じています(そうでなかったら、とても悲しい)。問題は、第二の条件です。
私も色々な仕事を任されます。不遜ながら言うと、それらは他の人がやったら無理か、かなり困難だと思われている仕事です。しかし、頼んだ人が予想している時間の半分以下の時間で、予想している質・量の倍以上の成果を成し遂げます。その成果を見せたときの、頼んだ人の驚いた顔を見るのが楽しみの一つです。もちろん、自分自身にとっても意味あることであることはいうまでもないことです。では、頼んだ人の驚くような質・量・早さで出来るのかといえば、それは、それに関して考える時間も作業も圧倒的に私がやっているからです。例えば、指導教官の場合は、私以外にも指導している院生・学生はいます。また、研究指導以外の様々な仕事を抱えています。ところが、私の場合は私の研究に専念できるんです。また、上司の場合も同じです。上司の場合は数多くの仕事を並行して考えなければなりません。ところが、私の場合は、それに集中できるんです。集中できれば、指導教官や上司の考えないようなことを思いつくことが出来ます。そのような成功経験を積み上げることによって、相手から仕事を任させると、だいたい相手がどの程度のことを期待しているかも予想できます。そして、相手の予想のつかない結論をまとめ上げるのが、相手が予想するより早く出来上がるであろうという目安もたちます。以上のような関係が成り立ては、期待しているよ、と言われても、「どうぞ、期待していてください。今、思い浮かべている以上のものをやってきますよ」と思えます。
私が教師の醍醐味を感じるのは、私の要求した水準を、学習者がやすやすと乗り越え、私の思いもつかない境地を教えてくれる瞬間です。その時、ウルウルしてしまいます。私が「期待しているよ」というときは、私の思いもつかない境地を教えてくれるだろうと信じているときです。そして、本当に期待しているんです。皆さんは絶対にそれが出来る人たちです。