■ [大事なこと]仲良し
我々は「学び合い」をキーワードにしています。でも、それが「仲良し」と混同される危険性を感じています。我々の目指しているクラスの姿を一言で言えば、「良い職場」なんです。教師人生をある程度やれば、様々な職場を経験するでしょう。その中で、「いい職場だったな~」と思い起こす職場を思い起こしてください。様々な先生がそこにいたと思います。それなりに協力して、一つの方向性を共有していたと思います。でも、みんなみんな全員が一つの方向性を共有していたとは限りません。な~んも仕事をしない人もいたのではないでしょうか?それほどでもなくても、相対的に仕事をしていない人は必ずいたと思います。一緒に仕事をしている人であっても、腹の中では「ウマの合わないやつ」と思っていた人はいたのではないでしょうか?尊敬している人、よく一緒に飲みに行った人であっても、「あの部分はイヤだな~」と思っているところがあったのではないでしょうか?我々が目指しているクラスは、そんなクラスなんです。だって、考えてみてください、20年前の青春ドラマで描かれているような、みんなみんな仲良しなんていう職場なんてあり得ます?人間は十人十色、ウマが合うのも、ウマが合わないのもあって自然です。それなのに、絶対に実現できるはず無い、みんなみんな仲良しなんかを目指していたら、気が変になってしまいます。
それでは、そんなウマの合わないやつがいる職場を、なんで「いい職場だったな~」と思い起こすのでしょうか?それは、その職場において自己実現できたからに他なりません。そして、それが成り立つために必要な、「自己実現と職場の目標が一致する」、「自己実現のもっとも強力な手段である仲間と有機的に繋がり得た」という条件が成立したからだと思います。
我々の目指すべきクラスにおいて、「あいつはきにいらね~」と陰口が出てもいいんです。ただ大人社会のルールと同じように、それなりの礼儀をわきまえた関係を維持できればいいんです。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人がいてもいいんです。人間、完全無欠の無能な人なんてそういません。だから大人社会では、そいつの能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです(いわゆるバカとハサミは使いよう)。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人からは、逆に、自分は「仕事が出来ないやつ」と思えるのかもしれません。しかし、その人も自分の能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです。
でも、ウマが合わないやつがいてもいいですが、ウマが合わないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。また、仕事が出来ないやつがいてもいいですが、仕事が出来ないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。でも、それのために何をするか、逆にしないかは、費用対効果で決まるものです。「あいつはきにいらね~」とか「仕事の出来ないやつ」を直接どうにかしようと費用対効果以上のことをするのは限界があります。費用対効果で成り立つ範囲内のこと(大抵の場合、ほっぽっとくという方法)をしているうちに、いつの間にかそいつが変わることはあるものです。
以上のことは教師人生を長くやれば教師は分かっていると思います。その分かっていることは、クラスにおいても成り立つと考えるのが、我々の特徴です。学習者は教師と同じだけ有能だと考えています(同時に、教師と同じように無能でもあります)。上記のようなクラスの理想と考えれば、気も楽になるのではないでしょうか?
追伸 蛇足だと思うのですが、再度繰り返します。我々が目指すべき、心の
成長した学習者とは、みんなと仲良くできる学習者ではありません。上記のような大人の関係を維持できる学習者が、本当に心が成長した学習者だと思います。そして、私は「大人の関係を維持できる学習者」の方が、「みんなと仲良くできる学習者」より素晴らしいと思います。少なくとも私は、上司・同僚・部下として選ぶならば、前者の人を選びます。
■ [大事なこと]まだ分からないこと、でも、そうだと思っていること
学び合いに関して、我々はかなりのことが明らかになっています。でも、まだ分からないことがあります。
我々の研究成果は本などを通して広く公開しています。でも、まだ本にしていないため、一般に知られていない成果もあります。そして、一般のみならず、研究室のメンバーも知らない場合もあります。その一つにHさんの研究があります。この研究は、とても重要な意味を持っています。特に、我々自身に意味があります。
Hさんの研究によれば、班のメンバーが固定化すると数ヶ月で人間関係がうまくいかない班と人間関係が維持される班に分かれます。うまくいかない班を見ると、その原因は相対的に能力のない学習者をリーダー格の学習者がフォローするのに疲れ、最終的には排除する行動に繋がります。しばらくすると能力のない学習者を排除することに成功します。本当だったら、能力のないメンバーがいなくなったのですから班の力は伸びるはずなのですが、結果はそうなりません。排除に成功した直後から、それまで一緒になって排除していたメンバーの間の関係が崩壊します。結局、班全体が崩壊します。一方、最後まで能力のないメンバーをリーダー格がフォローし続ける班がいます。その班の場合は、最後まで集団が維持します。
Hさんが修了した当初、私が考えたのは、上記のような問題が生じない方法は、メンバーを固定化せず流動化すべきだと考えました。このことは今でもそう思っています。しかし、流動化できない集団もあります。例えば、クラス、クラブ・部、そして研究室という集団がそれにあたります。そのような場合はどうしたらいいか、それが謎でした。Hさんが修了した当初、わたしは関係を維持し続ける班と、維持し続けられず排除し、崩壊する班の違いの原因はリーダー格のキャラクターの差であると考えていました。でも、そのように考えるのは我々の考えではありません。つまり、個人のレベルに原因を帰結し、犯人探しをするのではなく、集団の関係に原因があると考えるのが我々の考えです。その考えで、最近、考え直しています。
おそらく能力のないメンバーを排除するリーダー、排除しないリーダーに個人のキャラクターに違いはないのだと思います。違いがあるとしたら、その他のメンバーだと思います。つまり、能力のないメンバーをフォローするのが自分一人だと感じたリーダーは、それに疲れ排除します。ところが、能力のないメンバーをみんなでフォローしていると感じるならば、疲れず、それなりに続けられるのだと思います。私は排除した結果として班の崩壊が発生したと考えていました。しかし、崩壊するような班だから、フォローするのがリーダーに集中し、結果として排除する行動に走るのだと思います。つまり、原因と結果を取り違えたのだと思います。
このあたりはまだ分かりません。データがないので、私の想像です。でも、今までの研究の蓄積から想像したことです。
追伸 メンバー全員がフォローしているが、それでも、フォローしきれない能力のないメンバーというのはありえます。その場合は、最終的に排除する場合もあり得ると思います(もちろん、法的にも道義的にも許される範囲内で)。もし、上記で述べたように、排除の結果として班が崩壊するのではなく、班が崩壊したから排除が起こり、結果としてして崩壊が表面 化しただけであれば、メンバーのフォローがあるがフォローしきれず排除した班の場合は、排除した後も班の関係が維持します。私の経験上、それは正しいと思います。
■ [大事なこと]学び合うことを目標にすべきか?(その2)
先の「学び合うことを目標にすべきか? 」に関して、複数のOBから意見を頂きました。誤解を避けるために、追伸します。
私が述べた「学び合うことを目標にすべきか? 」に関しては、目標の設定の部分に力点があり、評価はそれほどの力点はありません。つまり、しつこく、あつく、ちゃんと語りますが、評価は自己評価です。現メンバーやOBならば分かると思いますが、個人達成も自己評価です。だって、「何頁以上の論文を書け」、とか、「何人以上のデータを取りなさい」なんて言わないでしょ?学生さん、院生さんが「何人ぐらいのデータが必要なんですか?」と聞けば、「あなたは何人ぐらいが必要だと思う?想像してみて、たった一人だけのデータで一般的な結論を出している人がいたら、あなたはどう思う?だからといって数万人のデータを取るなんて無理だよね。ということは二人から数千人の中の何人ぐらいが、あなたに可能で、あなたが納得できる数なの?」と逆に聞いていると思います。そして、ご当人が答えた数が、調査対象の人数になっているはずです。
研究に関しては、「それで同僚は分かってくれるの?あなたは納得できるの?」と言っていたと思います。そして、決めの言葉は、「期待しているよ」です。どれだけの達成度を目指すか、そして、それをどう評価するかは学習者に任せていたと思います。学び合うことも同じです。「何人と話したか?」とか、「発言回数は何回だったか?」なんていう評価で成績を出すつもりはありません。「あなたは学び合っているか?」、「そして何故にそう判断したか?」を問うつもりです。そして、私としては、学習者が自ら高い評価方法で、自らの課題達成と学び合いを評価することを促します。つまり、各学習者がどのような評価方法を取るかが、私の目標の設定者としての能力の評価になります。
追伸 ただし、授業に関しては、出席点は自己評価ではなく、ちゃんと取ろうと思います。