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2005-02-16

[]勤務に関して 09:43 勤務に関して - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 勤務に関して - 西川純のメモ 勤務に関して - 西川純のメモ のブックマークコメント

 某大学に勤務する教員のおはなしです。その教員は官舎に住んでいました。台所の窓から駐車場が見えます。あるとき奥さんが「あなたは、なんで毎日、大学に行くの?」と聞いたそうです。「え!????」と思っていると、「だって、○○さんの車も、○○さんの車も、○○さんの車も・・・、一日中、おきっぱなしよ」と言われました。大学の教員は自由がききます。具体的には、裁量勤務制というルールに基づいています。裁量勤務制とは、①勤務時間は1週当たり40時間とするが、割振りは行わず、この時間を勤務したものとみなす、②実際に勤務する時間帯の選択は基本的に本人の判断にゆだねられ、出退勤の管理は行わない、という制度です。だから、大学の教員が10時出勤しても、4時に帰っても法的には全く問題ないんです。でも、それを拡大解釈して、一日中、家にいることが許されるはずありません。ひどい人になると、大学からずっと離れた帰省先に週の殆ど過ごしている人もいます。それらの人は、自分の講義のあるときだけ大学に来るだけです。言うまでもありませんが、裁量勤務制だとしても、自由なのは出退勤の時間の管理であって、出勤しなければならないのは当然です。仮に、必要があって勤務校を離れて勤務するとき(私の場合、講演で出張するなどがあたります)、その所在・理由を勤務先が把握していなければなりません。どう考えても、定常的に週の3、4日、自宅にいること、さらには遠方の帰省先にいることを正当化できる理由なんてあり得ません。従って、上記の例の場合は、明らかに違法です。違法ということはご当人はよ~く分かっていると思います。だからこそ、勤務先に報告していません。

 法的なレベルの問題だけではありません。そんな勤務をしている人の仕事のレベルもたかがしれています。だって、勤務先より自宅の方が仕事が出来る人なんてどれだけいるんでしょうか?例えば、ちゃんと した机があり、インターネット環境が自宅にある人ってどれだけあるでしょうか?自宅に、勤務先の図書館以上の資料をそろえている人ってどれだけあるでしょうか?同僚と相談しないでどれだけの仕事が出来るのでしょうか?さらに、家にいれば家庭の仕事が入ってきます。家にいるにもかかわらず、その仕事をしなくていいという環境の家庭なんてあるでしょうか?結局、そのレベルで「良し」としている志しかないんです。ちなみに、私は自宅に仕事を持ち込みません。理由は、持って帰っても出来ないからです。それが分かっているので、大学で大学の仕事を「ちゃんと」します。第二に、仮に、その人の仕事は完璧に果たせたとして(まあ、その人の志が高かったら達成できるレベルに達するのは無理でしょうが)、集団の仕事を担えるでしょうか?勤務先に出てこない人が職場にいると、周りの人がえらい迷惑をします。いないため、ちょっとした相談・お願いが出来なくなります。結果として、それらは他の人がやらなければなりません。ところが本人は「いない」ので、そんな迷惑をかけていることを気づきません。さらに、公的な会議を設定するのが非常に困難になります。ご当人は当然、自分の都合に基づいて会議の日時を設定します。そんな人が2,3人いると、会議の日時を設定することは全く不可能となります。そんな人が自分が自宅にいる日に会議が設定されると、「家庭の仕事がある」というとてつもない理由をあげ、会議設定者をなじります。本務に不都合がないとき自宅にいるのではなく、自宅にいなくてもいいときに本務を設定するという本末転倒のことを当然の権利として考えているようです。ご当人は、「やることはやっている」とか、当然の権利だ、と主張するでしょう。でも、客観的にそれを支持する第三者(一般社会人)がいると思いますか?

 さて、このような人を管理する学長はどのようにすべきでしょうか?自分の課題に対して、もっと高い志を持つべきだと語るべきでしょう。また、自分だけではなく集団の中の意味を語るべきでしょう?でも、「勤務先に勤務する」という社会人として当然すぎるルールのレベルだったら、それが法の規定だということをちゃんと明示することがまず最初だと思います。

 さて、話を現職院生さんに転じます。派遣院生さんの場合は、勤務地は上越です。大学院が勤務先です(大学敷地内にあっても世帯棟・単身棟ではだめです)。さらに大学の教員のような裁量勤務制はありません。だから、法の規定によれば県の勤務時間に合わせて 大学院にいなければなりません。しかし、このことを厳格に適用するべきだとは私は思いません。そんながちがちでは研究なんかは出来るわけありません。大学の教員も、研究は自由な時間が必要なため、裁量勤務制が認められています。だから、大学院生さんもそれは必要です。そのため、車をおきっぱなしの大学教員と同じ勤務形態の人がいたとしても、結果がOKならばとやかく言いませんでした。しかし、その人の場合は結果がOKだったからです。それらの人は、毎日いなかったとしても、週に1回でいいなんて思っていませんでした。また、いたときに意識的・集中的に集団の仕事を果たしました。残念ながら、裁量勤務制は際限なく拡大解釈 する危険性があります。もう一つ理由があります。学年が十数人でその殆どが平常の勤務の人であった場合、ある人がいなくても、その事に関する負担を周りの人が分担することが出来ます。ところが、所帯が小さくなり、いない人の割合が高くなったとき、その歪みは多くなります。

 最近、来年度に西川研究室を希望する人からの問い合わせがあります。その人にちゃんと上記を明示する必要性を感じています。従って、以下のようにします。平成17年度以降の入学者に対しては、「 その人の教育委員会に報告できないような勤務形式を定常的にしない方を受け入れます。」とします。 法の規定は無いものの、本研究室の目標にてらして、非有職者(具体的には学卒院生)の方の場合も、上記に準じます。当然ですが。 こんなことを改めて書かなきゃならないことを情けなく思います。

 以上は方法レベルです。改めて全メンバーに求めます。出来るだけ高い志(つまり、最大限を費やしたとき、どのレベルのことが自分には可能で、今の自分はどれだけのレベルなのかを自問すること)を持つことを願うのと、 毎日いないということは、相当のことをしない限り周りに歪みが生じることをを恐れて下さい(つまり、人の我が儘を感じたとき、自分の我が儘を自問してください)。 本当の問いかけは、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」ということは、そんな片手間に出来ることじゃない、ということです。もちろん、私は家庭を犠牲にして研究せよ、なんて馬鹿げたことは求めません。でも、せめて勤務校の同僚にとやかく言われない程度のことを、年間を通してやらなければ、絶対に「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」は出来ません。それだとしても、現在の勤務より遙かに楽なはずだと思います。

 そして、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」は一人では出来るわけありません。全員がそれを達成できたときに、自分も出来ます。私は「一人の子どもを変えることは出来ないが、全員を変えることは出来る」と思います。我々自身が、集団に目を向けず、また、気にしていないならば、我々が主張していることは何なんでしょうか?

追伸 以上を西川研究室のルールに加えます。このことに関しては1ヶ月以上考えました。18年間の私の大学教員生活の中で必要の無かった、こんなレベルのことをルールとして掲げること自体、私の力量不足なのかも知れません。私が上越教育大学にいる理由は二つだけです。第一に、信頼できるボスがいることです。しかし、これはあと5年もたてば解消されます。第二は、二年間フルに派遣される現職院生さんがいることです。十四条適用の現職院生さんの研究で満足できるなら、私は雪の少ない大都市の大学に直ぐにでも異動します。

 現状の我が研究室は、他研究室に比べれば圧倒的に高いレベルを維持していると感じています。そして、個々人のメンバーが頑張っており、高い達成度を維持していることも疑っていません。我々の研究と同様に、私は犯人捜しをするつもりはありません。問題は場です。その場の変化(具体的にはT先生が副学長に出られた結果として、所帯が小さくなった)の結果として、かっては問題なかったことが問題となり、結果として、かって維持したレベルより低くなっている部分があり、さらに低くなる兆候が見られます。距離をおいている私にも上記のゆがみが目立ちすぎるように感じます。私の大学人としての志は、高く持ち たいと思っています。だから、上越教育大学が大好きです。

[]教師のエネルギー 09:43 教師のエネルギー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師のエネルギー - 西川純のメモ 教師のエネルギー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、新たなメンバー(学部2年生)の歓迎コンパです。学部3年生が汗をかいて、一生懸命準備をしました。大学の中で、3年生の準備した鍋を囲んでワイワイやりました。ごちゃごちゃ・わいわいしている彼らを見ていると元気になります。

 本日はある先生から以下のようなメールを頂きました。残念ながら研究室のメンバーには、まだ技術・家庭科の先生は一人もいません。でも、メールを読んで、我々の主張してることは全ての教科で一致することだと感じました。明日は埼玉で講演で、明後日は筑波大学附属で講演です。自信を持って出張にいけそうです。今日はみんなから元気をもらいました。

 『私は,技術・家庭科の教師ですが,ものづくりの授業における子供たちの姿は,まさに,西川先生がお話しされているとおりです。教師が特別,子どもに働きかけることなどしなくても,子供たちは主体的にかかわっています。いや,主体的にかかわらないと,子ども自身が先に進めないといった方が正しいかもしれません。それは,何故か。私の授業のものづくりでは,一人一人がつくるものが違います。大きさはもちろん,形や使っている材料など様々です。なぜなら,設計から材料選びまで,子供たち自身でやるからです。そのため,いったんものづくりが始まると,ほとんど,全体で共通に説明できることがありません。また,そうかといって,40人の子ども一人一人に個別に教師がかかわっていたのでは,1時間の中でせいぜい私が個別に指導できる生徒は10人前後です。だから,ほとんどの生徒は,自分たちの力でやるしかありません。さらに,ものづくりをどんどん進められる子と進められない子の決定的な違いは,分からなかったり迷ったりした時に,友達に聞くことができるかどうかの違いです。先に進めない子は,ずっと自分で悩んで,いつまでたってもそこで立ち止まってしまいます。そのため,困った時にどこにいけばどういう情報を得ることができるのか,子供たちには伝えておきます。パソコン,ビデオ,ポストイット,繰り返し練習できる場など・・・。あとは,子供たちが勝手に必要があればそこに行くわけです。そして,ものづくりですから,席なんてものもありません。子どもは自由に移動します。そして,当然,子どもは私にどうすればいいか聞こうとしても,順番待ちになってしまうので,子どもは子どもに聞くしかありません。ものづくりですから,工作機械や刃物も使うので,教師は特に安全面で配慮が必要なところに集中的にかかわっていきます。ですから,子どもは,手を抜こうと思えば,いくらでも手を抜くことができます。授業研究でも,全体で話をしたのは,最初の5分だけです。その後は,子供たちが好き勝手にものづくりに取り組んでいました。でも,何故,子どもは手を抜くことをしないのか。それは,一人一人の子どもが目的意識をもっているからです。自分の願いをもとにつくるものを自分で設計し,自分で材料を選んで,自分で1時間ごとの計画を立てて取り組んでいる。ここが,子供たちのものをつくることの意味や価値を支えている大きな部分です。主体性というのは,学ぶということの最も土台となる部分だと思います。私は,これまで先生の著書「学び合いの・・・」「静かに・・・」「座りなさい・・・」の3冊を拝読させていただきました。そして,その度ごとに,これはまさに,技術・家庭科のものづくりの授業そのものだなと強く実感しておりました。そして,私自身も普段の授業で求めている授業でした。』