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2005-02-24

[]よかった 09:37 よかった - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - よかった - 西川純のメモ よかった - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日はゼミの皆さんといっぱい話しました。その結果、今月16日のメモ「勤務に関して」で示したルールを取り下げることが出来ました。よかった。

 以前から私が課している条件は、第一に、他のメンバーと仲良くできることです。第二は、教師という仕事に憧れと誇りを持って欲しいことです。でも、本当に求めているのは、西川研究室が求めていること、そして得られることに関して「惚れて欲しい」ということにつきます。それさえ成り立ちさえすれば、第一の条件は自然と成り立ちます。第二の条件ですが、実はそれに反する学生さん、院生さんを受け入れたことはあります。教職を希望しないある学生さんが、西川研究室に入るために「教師になりたい」と嘘を言った人もいます(後から、先輩からそういわないと入れない、と言われたと言っていました)。別な学生さんは、教師にはなりたくないが、でも、どうしても入りたいと正直に言いました。いずれの学生さんも受け入れ、卒業させました。何故なら同志になれる人だと思ったからです。

 それでは何故、今回、馬鹿げたルールを設けたか?それは、戸北・西川研究室から西川研究室になることによって、所帯が小さくなりました。その結果として、多種多様なメンバーを受け入れるためには、メンバー全員が今以上に他のメンバーを思いやる必要性が高まったからです。私自身は、その変化に気づいたのは昨年です。そして、それをはっきり思い知らされたのは昨年の11月後半からです。それ以来、やんわりと目標の再設定をしつづけました(過去のメモをみれば、それが分かると思いますよ)。なぜ「やんわり」とやり続けたかと言えば、「叱れない」というメモに書いたことを予想したからです。私自身が求めたことは、「他のメンバーを思いやる必要性」、「いないことによって生じる不都合」です。しかし、やんわりとでは「無邪気に問題がないと思っている」状態を改善できませんでした。私はあらゆる場面で「学習者を信じること」の重要性を述べていながら、信じ切れなかったからはっきりと言えませんでした。しかし、はっきりと分かってもらわなければならないと思い、傷つく人がいることを理解し、それによって私が失う物が大きいことを覚悟し、あえて馬鹿げたルールを設定し、真剣に考えてもらいたいと思いました。本日、M1、来年M1になる4年生、3年生を集めて、ちゃんと話しました。つまり、「多様なメンバーを受け入れるためには、一人一人が西川研究室の目標でに照らした行動をしなければならない。具体的には、高い志を維持し、集団の意味を考え、他のメンバーを思いやり、自分が居ないことによって生じる不都合を意識して欲しい。それをどうやるかを考えて欲しい」ということです。そして、「それが出来なければ、馬鹿げたルールを課し、「来る者は拒まず、去る者は追わず」という路線を維持できない。どちらにするかを判断して欲しい。」と判断を求めました。その結果として、馬鹿げたルールを取り下げることが出来ました。

 西川研究室は自由な研究室です。でも、それは「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」という目標に共感できる人に対してのみに成り立つことです。「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」という目標に共感できる人ならば、多様なメンバーが多様な関わり方で他のメンバーと繋がることが出来ます。それが出来れば、全員が高い達成度に至ることが出来ます。そうであるならば、研究の場である大学・大学院は、それ以外の世界では考えられない自由が与えられます。でも、逆に言えば、それが許されるのは高い達成度を維持できた場合であり、それが成り立つためには、集団の力が必要です。本当の自己実現をするためには、個ではなりたちません。個が自己実現のために、個の自由意志によって、集団を形成する、それが我々の考える「学び合い」です。

 西川研究室は自由な研究室です。しかし、「自分の心に響き、自らを高める」ことを目的とする人には不自由な研究室だと思います。ましてや修了・卒業することを目的とする人には理不尽な研究室だと思います。たしかに私も含めて、「自分の心に響き、自らを高める」のレベルが正直なレベルでしょう。でも、それで達成できるレベルはたかが知れています。そのことは過去の実績が証明するところです。「勤務に関して」で示した馬鹿げたルールは取り下げるとしても、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」という目標は変わりなく掲げます。

追伸 上記の目標の再設定は、おそらく、今日が最後ではなく、今日からだと思っています。特に、色々な背景を伝えきれなかった3年生と、本日いなかった2年生には何度もやる必要性があると思っています。

[]叱られたこと 09:37 叱られたこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 叱られたこと - 西川純のメモ 叱られたこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 メンバーと話し合った時、色々な人からお叱りをうけました。第一は、今回のことのような波及効果が大きいことに関して、いきなりメモで不特定多数に可視化する前に、メンバーにちゃんと話して欲しい、と言われました。私は、「だって、それをしたくたって、みんないないんだもん」と反論しましたが、本当は皆さんの言っていることは正しいことは分かっているんです。みんないなけれりゃ、本日やったようにちゃんと「集合」 の号令をかければ良いだけのことです。そして、その場で全員にちゃんと語ればいいことです。昨年一年で、心に刻みつけたのは「目標の設定は、出来るだけ多くのメンバーを前にして、ちゃんと語るべきだ」という、西川研究室としてはとてつもない当たり前のことです。

 二番目に言われたことは、目標の設定が終わった後、メンバーが話し合う場面にいて欲しい、ということです。私がいないほうが良い理由として、「私がいると話づらい」ことを述べました。しかし、皆さんが「私がいても大丈夫だ、いて欲しい」と言われたので居ました。でも、本当はもう一つ理由があるんです。それは、教師が分かりすぎると、ろくなことがない、ということです。教師になりたいという人は、我々が教師に求めるような間合い以上に近づきたがる傾向があります。そして、関わりたいと願います。でも、関わっても本質的な解決にならず、結局、学習者集団がその気になって、学習者集団が解決しない限り問題は解決しません。ところが、間合いが近すぎると、知ってしまい、そして、自分で解決しようとしてしまうんです。私も教師になりたいと願った人間です。知れば介入してしまいます。もちろん、私が方法レベルに介入しても、それを無視できるぐらいまで皆さんが成熟できているなら、 安心して介入できるんです。でも、それはまだではないでしょうか?だから、インプットとアウトプットが見える抑えるにとどめ、その過程はブラックボックスぐらいが、いいのではと思います。しかし、それが間違っていれば、それを指摘してくださいね。

[]疑問に応えて 09:37 疑問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 疑問に応えて - 西川純のメモ 疑問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある方の疑問に応えました(答えましたではありません)。大事だと思うので、可視化します。 

 「結果の責任は教師と学習者のいずれにあるか」という疑問です。私は、「教師は子どもの人生に関して責任は取れない、だから子どもの自己判断・自己責任を重視すべきだ」と色々なところに書きました。それゆえ、「結果の責任は学習者 に第一義的にある」と捉えられるかも知れません。しかし、違います。教師も子どもも責任を負っているんですが、その責任は異質であり、足したり引いたりできないものだと思います。だから、とっちが責任が重いなんてナンセンスなことだと思います。だって、 両者は異質故に比較できないんですから。例えば、学習の結果として子どもの人生が望ましくない方向に行ったとして、その子の人生はその子しか背負えません。それを自覚して、人任せにならず判断することが子どもには必要なんです。逆に、どんなに凄い学級であっても、どんなに凄いキャラクターの子どもが居たとしても、そのクラスを結果は教師は背負わなくてはなりません。「だって、あのクラスは・・」と言い訳できません。教師も子どもも、それぞれ異質な責任を、それぞれが全て担っているんです。だから、「全て責任は教師」とも言えますし、「全て責任は子ども」とも言えます。そして、「責任は教師と子ども の両方」とも言えます。しかし、同じような種類の責任を分担していると考えると、どっちがどれだけ、というような低レベルの議論になるように思います。それぞれが全てを担っていると覚悟を持つことが大事だと思います。だから、教師が子どもに対して「全ては君の責任だよ」ということは大事なことだと思います。でも、だからといって、教師の責任が無くなるのではなく、子どもが担えない責任を全て担わなければならないのが教師です。だから、給料をもらっているんだと思います。

 もう一つの疑問は、「指導者の決定に逆らうことは出来ない」ということです。たしかに、そうでしょう。目標の設定は、教師が担わなければならない責任です。しかし、学習者は指導者の決定を変えることは出来ることを忘れてはいけません。指導者は完全無垢な人間ではなく、愚かな人間です。もし、指導者がそれを自覚していれば、愚かな決定を覆すことを喜んでするはずです。しかし、学習者の意見を聞いた後に最終的な判断は指導者が行います。それは小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも同じです。しかし、その後でさえ、学習者には選択肢があります。それは、その判断を納得するか、しないかという選択肢です。それは、指導者の最終判断に積極的に参加するか、消極的に参加するかという選択肢です。さらに学習臨床コースでは、指導者を選ぶ権利を学習者は留保しています。実は、学習者と指導者はともに権利を持っています。指導者は目標の最終決定をする権利、学習者は指導者を選択する権利です。同時に、義務を持っています、指導者は学習者に納得させる義務、学習者は指導者を選ぶ(途中で変える)ことに生じる結果を受ける義務です。この緊張感があるからこそ、異質ではあっても同等の人権を維持し、良い関係を維持出来るのだと信じています。だから、私は学内政治で常に、学習者の選択の権利を維持する側に立ちます。なぜなら、それが私にとって望ましい環境を維持する条件だからです。