■ [う~ん]良い言葉
「心の教科指導」(東洋館出版社) の第1章に「教科指導のできない教師に生徒指導はできない」、「生徒指導のできない教師に教科指導はできない」という一般に言われる言葉の問題点を書きました。しかし、ここの部分を表現するもっと良い表現があるような気が、書いた当時から感じました。本日、ふと思いつきました。「教科指導の伴わない生徒指導では生徒指導はできない」、「生徒指導の伴わない教科指導では教科指導はできない」の方が良いように思います。「教科指導のできない教師に生徒指導はできない」では、教科指導は教科の時間、生徒指導はホームルームのように時間・空間が別です。ところが、「教科指導の伴わない生徒指導では生徒指導はできない」、「生徒指導の伴わない教科指導では教科指導はできない」では時間・空間が同じです。このことがとてつもな重要ですが、このことが言葉遊びではないことをどう伝えたら良いんだろう・・・。このことが伝えられたら、学力と心を分けて考えることのバカバカしさが分かります。そして、教師の仕事のほとんどを占めている教科指導の意味を分かってもらえます。でも、難しいのだと思います。「心の教科指導」は西川研究室の本の中で、一つだけ売れ方が寂しい本です。でも執筆した当初は、私としては一番売れる本だと思って企画しました。このギャップは何故なんだろう・・・・?と思います。う~む・・・
■ [親ばか]幸せ
人間の欲望は、その根源には3つのレベルがあります。第一のレベルはDNAのレベルです。このレベルは変わるとしたら何十世代がかかり、数万年のレベルの時間がかかります。個人のレベルでは不可能ですし、いや、その時代の全ての人間の力でも無理でしょう。第二のレベルは社会のレベルです。一定の集団の中の規範に根ざしたものです。このレベルが変わるとしたら数世代、百年以上の時間がかかります。でも、日本の明治維新の時代のように数十年のレベルで変わります。第三のレベルは個人のレベルです。これは数年、いや、数日で変わります。第三の個人のレベルの欲望が多くの人に共有されたならば、第二のレベルの社会に記憶される欲望のレベルになります。その社会のレベルの欲望が、より多くの集団に、かつ、長い時間維持されるとき、適者生存の原理に基づいてDNAに記憶されます。私が何を書きたいかと言えば、多くの人の欲望は、多くの人に共通する欲望であり、その追求の結果が現在の欲望を規定するということです。
最近、息子はそれなりに一貫した理屈を言うようになりました。それを聞いていると、息子は天才ではないか?と思いたくなります。そうなると、リーマン予想を解決したりガンの特効薬を開発し、フィールズ賞・ノーベル賞をとったらいいな~と、一瞬思いました。でも、すぐに、そんなことより孫を与えてほしいと思いました。そして、そのためにも、健康で長生きしてほしいと願い、なによりも、わたしより、健康で長生きしてほしいと願いました。フィールズ賞・ノーベル賞の息子をもてる人は世界中に何人いるでしょうか?かなり少ないことは確かです。それよりも孫を与えてくれる息子の数は桁6桁から7桁は多くなるはずです。そして、親より健康で長生きする息子は、さらに多くなるはずです。フィールズ賞・ノーベル賞が望ましいと思うのは、個人の欲望のレベルであり、せいぜい社会のレベルの欲望です。それに比べて、私より健康で長生きしてほしいという方が、よりDNAのレベルに近いように思います。
我々の本当の欲望は、多くの人が共通に持ち、そして、多くの人が達成できるものだと思います。と考えると神(仏)を感謝する気持ちと願う気持ちがわきます。