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2005-05-08

[]願いは叶う(その2) 15:28 願いは叶う(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 願いは叶う(その2) - 西川純のメモ 願いは叶う(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今からだいぶ前のメモ(願いは叶う(01.3.27))を書きました。そこには、以下のように書きました。

 『青臭いかもしれませんが、私は「願いは叶う」と信じています。何故かなうのかといえば、本気で願うならば、「その願いを実現する方法は何か?」という情報の収集をおこないます。本気で願うならば、「その方法」を継続的におこないます。本気で願うならば、その願いが実現可能な願いなのかを自己評価します。また、その「願いが」が本当の自分の願いなのかを考えます。その結果、新たな「願い」を見いだすことになります。

 人は「願う」ものです。「願い」に向かって進むと同時に、「願い」自体を進化させる必要があります。そのパワーの源泉は「本気で願う」ことです。だから、「願いは叶います」、「本気で願ってください」と話します。 』

 再度書きます。「願いは叶う」ものです。ポイントは、「本当に願う」ことです。本当に願うならば、その願いを実現するために、「今すること」、「今日すること」、「今週すること」、「今月すること」、「この年にすること」・・を考えるはずです。案外、それがおざなりにされて「願っている」場合は少なくありません。それは、本当に願っていないからです。もちろん、願っているのに、どうしたらいいのか分からない場合があります。でもね。本当に願っているならば、もがくはずです。そして、情報収集するはずです。情報が無くて、願っても実現する道筋は見えません。しかし、本当に願い、情報を収集するならば、「おぼろげ」ながらも方向性が見えるはずです。さらに情報収集をするならば、「今すること」、「今日すること」、「今週すること」、「今月すること」、「この年にすること」・・が分かるはずです。そして、本当に願うならば、それを今も、今日も、今週も、今月も、この年も続けることが出来ます。願っているのにも関わらず、継続できないならば本当ではないのだと思います。当然、自分が思っている「今すること」、「今日すること」、「今週すること」、「今月すること」、「この年にすること」・・が、その通りに実現するなんてありえません。でも、自分の願いにあわせて情報収集と実行を積み上げます。でも、それでも出来ない場合は、自分が願うことの方向性に合わせて、「今すること」、「今日すること」、「今週すること」、「今月すること」、「この年にすること」・・を再構成します。再構成することはつらいもんですが、最終的(もしかしたら自分の臨終でも終わらない未来)な実現に向けて再構成します。だって願っているんですから。

 もう一つ、付け加えます。本当に、自分の願いと現実との間で調整し続ければ、自ずと自分の現実にあった願いに換わるはずです。でも、現実と願いをイコールにしてはいけないと思います。つまり、今のままで良いんだ、ではいけません。最終的な願いは堅持しつつ、「今すること」、「今日すること」、「今週すること」、「今月すること」、「この年にすること」・・は現実的にすべきだと思います。

 私の好きな言葉に「志は高く、現実には柔軟に」というこ言葉があります。ある意味で、安易な言葉にとられがちです。でも、現実に柔軟であり、かつ、志を高く維持しつつけることは、本当の意志の力が試されます。

[]笑う 15:28 笑う - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 笑う - 西川純のメモ 笑う - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下で書くことに関しては、善意の多くの教師から嫌われるであろうことを十分に承知した上で、書くべきだと判断して書きます。

 私が定時制高校に勤めたときの話です。定時制高校の子どもたちの中には家庭環境は悲惨な子どもは少なくありません。担任として、見るに見かねて給食費や修学旅行費を立て替える先生は少なくありません。でも、そのような先輩の先生方から、立て替えるべきではない、と教えられました。それらの先生によれば、概ねハッピーエンドではなく、恩を仇で返す場合が多いというこです 。そうでない場合は無いとは言い切れませんが、分の悪い博打です。少なくとも、私はそんな博打はしません。従って、恩を仇で返されたとしたとしても、納得できなければ立て替えるべきではない、と教えられました。教師は親でもなければ、親戚でもない、赤の他人なんです。それに、一人の子どもにそれだけのめり込んでしまえば、他の子どもを捨てる部分が多くなります。なによりも、本当に守るべき自分の家族を捨てていることになります。

 最近、大学においてもそんな先生がいるということを聞きました。それを聞いたとき、思わず大笑いしてしましました。おそらく、テレビ番組的には美談なのでしょう。でも、定時制高校の修羅場を経験した私にとっては、甘ちゃんすぎて大笑いです。その一線を越えて、どれだけのことをする覚悟があるのでしょう。馬鹿げています。突発的な事情(例えば、親が死んだとか、災害にあった)があるならばいざ知らず、そうでない場合に、そのような援助を求めるという場合、際限もなく求められることを覚悟しなければなりません。自分の家族のために使える大金を、捨てることが美談とは思えません。

 教師の仕事は、仕事なんです。自分の家族を犠牲にすることは本末転倒です。でも、自分の家庭の幸せと矛盾無いことで、教師としてやれることは大きいと思います。その素晴らしさを確信し、実行している自負があるため、良心の呵責無く、テレビ番組的美談を大笑いできます。