■ [大事なこと]どうすればいいの?(その2)
昨日、M1のKnさんと議論しました。その際、とても大事なことが分かったような気がします。(まだ未整理ですが)
我々の本を読んで、「どうすればいいの?」と問いかけられる方の中には、我々から見ると、ど~でも良いレベルのことにこだわっている一方、本当にこだわるべき事を無視する方がいます。どうしてなんだろう、また、どう説明すべきなんだろう~と悩みました。しかし、昨日の議論の中で気がつきました。結局、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか 」という本質的な問いかけをしているか、していないかの差のように思います。
問いかけをしない人の気持ちも分かります。「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という問いかけは若い教師ならば、必ず自分に問いかけるはずです。でも、しっくりとするような答えはありません。いろいろな本を読んで、心惹かれることもあるでしょう。でも、それらは、今日の指導をどのようにすべきかという事に関して、具体的な指針を与えません。せいぜい「教育は愛だ!」というレベルの精神論に過ぎません。詩や小説を読んで楽しめるレベルなら良いんですが、現実の激務の中で「現実的、抽象論」と見切ってしまいます。結局、今日の指導をどのようにすべきかを「事細かに(つまり、あまり自分の頭を使わなくてもいい)」指示してくれるノウハウものに惹かれ、それらを多く知っていることが教師の職能であると考え始めます。そして、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という問いかけは、無意味であると心の中に封印します。長い教師人生で「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という問いかけがむくむくと起きあがるときがあります。でも、「でも、しょうがない」と考え、その疑問を押し殺します。そのようなことが続く内に、ノウハウもの的な思考パターンに陥ってしまいます。
しかし、私は自信を持って主張できます。我々のもつ、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という問いかけに対する回答は、今日の指導をどのようにすべきかと言うことに関して、具体的な指針を与えます。たしかに、それは指針です。だから、「事細かに(つまり、あまり自分の頭を使わなくてもいい)」指示ではありません。でも、その指針と自分の頭があれば、今日の指導をどのようにすべきかを具体的に決定することが出来ます!もちろん、それがうまくいかないことがあるでしょう。でも、そうだとしても、どのように考えて解決するか、立ち戻るべき地点を持っています。それが我々の強みであり、誇りです。
私が立ち向かうべきモンスターへの武器は、彼らの前提としている仮定が、実証的に正しくないことを示し、それに代わりうる素晴らしいヴィジョンを提示することです。しかし、もう一つの武器は、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」と問いかけることだと確信しました。
かって「悩んでいるOBへ」(04.6.14)というメモで、修了したOBが我々の研究室の考えに語っていることを再度読んでいただきたいと思います。そこで書かれている目的地とは、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」に対する明確な確信に他なりません。その確信が有りさえすれば、今日という日、今月という月、今年という年、自分の一生を自信を持って、自分の頭で判断することが出来ます。
■ [ゼミ]ようこそ
ようこそ西川研究室へ。皆さんの参加によって、学部3年5名、学部4年4名、修士1年7名、修士2年4名、博士1年1名、博士2年1名、博士3年1名の23人の同志による研究室になることが出来ました。かつて、他大学の先生が我々を評して「軍団」とおっしゃっていました。人数のみならず、それ以上に有機的に繋がったネットワーク、それによる学術・実践における圧倒的業績によって、最強の軍団であると自負しています。
顔見せの時のかなり前は、「今年は宇宙一厳しい」とビビらせずに、ニコニコして来る者は拒まないようにしようかな?と思います。でも、顔見せの時期が近くなるに従って、私の我が儘と恐怖感から、「宇宙一厳しい」と連呼してしまいます。でも、そんなにビビらせても、多くの方に共感を持って頂けることに感謝しています。みなさんと一緒に、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」という目標に向かって「結果」をだしましょう。少なくとも、昨日の歓迎コンパで確信しました。1年間、楽しい飲み会になりそうだと言うことだけは確かです!
ようこそ西川研究室へ。管理人として歓迎致します。
■ [怒り]怒る
上越教育大学は全国から優秀な中堅教師を院生として受け入れている特異な大学です。それを受け入れる大学教師にも様々な人がいます。ある大学教師は言いました。
『現職院生なんて、学術的な教育研究の経験はない。そんな現職教師にまともに教育研究のなんたるかをまともに分かるわけはない。適当にあしらって、教育研究のまねごとをさせればいいんだ。』
さて、これを聞いた現職院生の方はどう思うでしょうか?憤慨するでしょうね。現職教員は学術研究としての教育研究の経験がない人が大多数でしょう。しかし、自分たちには20年弱の教師としての生々しい教師としての経験があり、いま正にその中に生きています。そのような自分たちと共同しないで、どれほどの教育研究が出来ると思っているのか!教師を馬鹿にする教育研究者にどれほどの教育研究が出来ると思うのか!と思うのではないでしょうか。私もそう思うし、怒ります。でも、幸いなことにこの話はフィクションです。
最近、ある現職院生さんが、学卒院生であることを理由に、学卒院生の人たちを馬鹿にする発言をしたと間接的に聞きました。正直、「てめ~は、何様のつもりだ!」と最初は怒り、そして、情けなくなりました。
その院生さんの発言を学卒院生の方が聞いたらどう思うでしょうか?憤慨するでしょうね。学卒院生は教師としての経験がありません。しかし、自分たちには20年弱の学習者としての生々しい経験があり、いま正にその中に生きています。そのような自分たちと共同しないで、どれほどの教育研究が出来ると思っているのか!学習者を馬鹿にする教師にどれほどの教育研究が出来ると思うのか!と思うのではないでしょうか。
私は学習者を馬鹿にする教師は嫌いです。私の職場においては、自身の学習者である学生・院生を馬鹿にする大学教師は嫌いです。私と異なった指向性を持ち、私が期待する達成度に達し得ない学生・院生がいることは了解しています。しかし、それだとしても一人の個人としては、私と同等の人権を持つ存在であることを疑いえません。学生・院生を馬鹿にする大学教師を見ると、「てめ~は、何様のつもりだ!」とむくむくと怒る気持ちがわきます。同様に、 上記のように学卒院生を馬鹿にする現職院生は嫌いです。もちろん、現職院生と学卒院生には違いが大きいのも確かです。でも、同等の人権を持つ存在で、 学卒院生であるということで馬鹿にする筋合いのものではありません。異質な人と協力することの意味が分からない人は、少なくとも、そんな人に我々が目指すような教育研究は出来ません。
建前上、教師は全ての学習者を好きになることを期待されます。しかし、実際は嫌いな学習者はいるものです。でも、それが自分の担任のクラスにいるならば、それはつらいものがあります。幸い、上記を言った人は、西川研究室の人ではありません。まあ、そんな人は我が研究室に所属したいと思わないのでしょうね。
追伸 正確に言います。 日頃の言動を元にして、ある学部学生さんを、現職院生さんが馬鹿にしたり、嫌うことことがあっても当然だと思います。私が気にしているのは、実際の言動ではなく、「学卒」であるということを理由に馬鹿にした点です。さらに、私は学卒院生を馬鹿にする現職院生を馬鹿にしているのではありません。同等の人権を持つ存在として、「嫌い」なんです。