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2005-07-28

[]質問に応えて 11:13 質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて - 西川純のメモ 質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 西川研究室以外の院生さんから以下のような質問を受けました。

 『本大学で様々な学校で参与観察を行ってきたが、最近自分の研究とは別によく考えるテーマがある。それは教師は生徒の個性を一人一人理解したうえで指導すべきか、ということである。

 最近見た研究授業を例にあげる。その授業は6年生の図画工作で、単元名は「わたしマークをつくろう」というものであった。以下に概要を示す。

 本時では、これまでの活動で見つけてきた自分らしさや自分の名前などをきっかけにしながら「わたしマーク」をつくっていく。製作途中での友達との対話による相互評価や発想のやりとりをしながら、自分を確かめ、わたしマークをつくり-つくりかえていくだろう。そして、その過程では、「自己の内面」という他者との対話が行われていくことを期待している。(指導案より抜粋)

 この授業での教師側のねらいは、友達やもの、自己との対話により、自分らしさを考えながら、自分の好きなものやこと、自分の名前の文字をヒントにしながら「わたしマーク」をつくる(指導案より)、というものであった。これは、今まで集めた自分の好きなものやことをきっかけとした自分らしいマークをオリジナリティをともなわせてデザインさせ、友達とのマークの見せ合いにより、新たな自分らしさの発見に気づきマークをつくりかえていく活動にさせたかったはずである。しかし私が注目していた児童Rは漫画のキャラクターの絵を正確に書き写し、そのキャラクターを「わたしマーク」としてしまった。

 ここで教師はRに対してどういう指導をすべきか。Rのマークは客観的に見れば教師側の意図とズレが生じてしまっている。では、教師がRに「書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるのですよ」と支援すればよいのか?

 その支援をRに対して言うとすれば段階を踏む必要がある。まず、Rのマークの中にはRの個性がないのであろうか。Rは漫画のキャラクターを正確に書き写すことこそが自分らしさだと考えたうえでマークを描いたのかもしれない。教師側はRを一人の人間としてその「個」を捉えていなくてはならない。そして、それを理解した上でRは本時の授業の意図とずれていると感じたのならば上記の支援の仕方も一つの方法として良いと思う。

 しかし、「個性」を理解するとは何なのであろう。可能なことであるのだろうか。また、40人のクラスであれば40の「個性」がある。「私はクラスの児童をよく分かっているから最適な授業ができるのですよ」みたいなことを言う教師がいたら私は「あなたはエスパーかサイキックかなんかなのですか?」と言ってしまいそうである。

 「個」を理解するのは難しい。しかし、何も分からないのであれば上記の例のような子供にどう評価していいのかわからない。これが、最初に述べた「教師は生徒の個性を一人一人理解したうえで指導すべきか」という疑問の根っこである。』

 それに対する私の「応え」は以下の通りです。

 『○○さんの疑問に私なりの「応え」を述べます。結論から言えば、個人個人を理解した指導は出来ないし、また、すべきでないと思います。エスパーかサイキックでない教師が出来ないと言うことは、○○さんも指摘しているところです。すべきでないと言うことを説明します。

 まず、キャラクターを「わたしのマーク」として、何が悪いんだろう?と思います。例えば、国の国旗などは、キャラクターのオンパレードです。例えば、十字架をあしらった国はヨーロッパにはいっぱいあります。イスラム圏だと「月」が使われています。それ以外も、何かのキャラクターを使って「我が国の国旗」としている国だらけだと言えます。そのキャラクターが意味するものが、自分の姿(目指す姿)と一致していると考えるならば、それを使って悪いわけありません。

 おそらく、その授業の目的が違うのでしょうね。具体的には「自分らしさ」という言葉が何を意味するかにかかってくるのだと思います。さて、その「自分らしさ」の意味がクラスの殆どに伝わっていたのでしょうか?もし、伝わっていなかったとしたら、Rの個人的な問題ではありません。Rを個人的に理解するしないではなく、もう一度、クラス全体にちゃんと語らなければなりません。

 さて、クラスの殆どに伝わっていたが、Rには伝わっていなかったとします。そうであったら、何故、他者との関わりの中でRは気づかないのでしょうか?その様な関係が成り立っていなかったとしたら、それはクラスの問題です。別に、教師がRに「書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるのですよ」と支援しなくても、他の子どもが「Rちゃん、書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるんだよ」と語るでしょう。それに対して、何故、そのマークを使ったかをRが語り、それに応えてクラスメートが語る、そのような過程で正されるはずです。それこそが、『製作途中での友達との対話による相互評価や発想のやりとりをしながら、自分を確かめ、わたしマークをつくり-つくりかえていくだろう。そして、その過程では、「自己の内面」という他者との対話が行われていくことを期待している。(指導案より抜粋)』じゃないですか?であれば、この場合においてもRの問題ではなく、クラス全体の問題です。

 教師がRにこだわり、Rを正そうとすると、問題の本質であるクラスを見失います。子どもを救うのは他の子ども、そのような集団を作るのが教師の仕事、と我々は信じています。』

[]専門家の目 11:13 専門家の目 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 専門家の目 - 西川純のメモ 専門家の目 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ある現場の先生から質問を受けました。

 「数学や理科の場合は、正解はハッキリしています。ところが、国語の作文や、美術など表現の場合、正解はハッキリしていません。そのような場合、評価観点を明確に記述することは出来ず、その道の専門家の判断に頼らざるを得ないのではないか?」という質問です。

 それに対して、私は以下のように応えました。

 果たして、専門家の目というのはあるのでしょうか?国語の作文を研究したOBの研究によれば、それは無いようです。同じ作文を、その教科を専門とする教師が評価すると、その評価にはばらつきが多いそうです。優れた文学作品、芸術作品に対する「玄人」の評価が分かれるのは常識でしょう。本当に専門家の目というのはあるのでしょうか?あったとして、一般常識人の目とどれほど違うのでしょうか?

 以上のように「専門家の目」が疑わしいことはさておいて、十歩譲って、そのような目があったとします。あったとしても、そのような評価は役に立つでしょうか?専門家の目から見て「いい作品」、「悪い作品」という判断が下されても、学習者は、何故いいのか、何故悪いのかが理解できません。専門家から「分かる人間になれば、分かるんだ!」では下手な禅問答に過ぎません。いうまでもないことですが、学校教育における評価は、その学習者が自分を改善するための手がかりにならねばなりません。

 つまり、「専門家の目」があろうと、なかろうと、「専門家の目」による評価は無意味なんです。専門家であるならば、「専門家の目」を学習者に分かるように説明できなければなりません。もし、専門家が「そんなことは無理だ」と公言したならば、それは「その学習(教科)は学校教育には添わない」と大声で宣言しているようなものです。つまり、「私をクビにした方がいい」と言っているようなものです。

[]教師の腹 11:13 教師の腹 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師の腹 - 西川純のメモ 教師の腹 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 前期がもうすぐ終わります。前期の課題としてレポートを課しました。その課題の一つに、我々の本にあるエピソードに似た経験(もしくは逆の経験)を実例を元に書いてもらうというものです。その中に、子どもは教師の腹を読んで、それに沿った行動をすると言うことが端的に示されるエピソードがあったので紹介します。これを読めば、学び合わない原因が教師にあることが歴然としています。おそらく、図工を「開放的」にとらえている先生が多く、そのため学び合いの邪魔をしない期間が存在する可能性が多いのでしょう。でも、国語・算数あたりの教科だと、それすらなくて邪魔しているのかもしれません。結局、「学び合い」をテクニックと捉えるか、考え方と捉えるかの差がここにも現れます。ある場面で使えて、ある場面で使えないというような、テクニック的に捉えれば、直ぐに腹を見透かされます。子どもが教師を見ているのはテクニックではなく、腹なんです。

『小学校における図画工作(*以下、「図工」と略す)の時間は、教師にとっても子ども達にとっても、自由な時間であり、ある意味、開放的な時間であると感じている。教師は、子ども達の創作意欲のおもむくままにまかせて、つくらせておけばよく、中にはその時間を利用して、これ幸いと事務処理や単元末テストの採点をしている方もいる。子ども達はというと、通常の机を縦横に整列した形態を崩して、めいめいに好きな相手とグループをつくって活動している。また、2時間続きで時間割を組んであるので、図工の時間は、充実した活動のできる時間であるといえる。

子ども達が自分達でグルーピングをする際、私の場合、だいたい4月に子どもと次のような会話のやりとりが起こる。

「先生、好きな人とやっていいですか?」

「なんで、それを先生に聞くの?」

「だって、前の先生はいつも『だめ』って言うから」

「じゃあ、なんで前の先生がだめと言ったことを、先生に聞くの?」

と、ここまで話すと「わかりました……」と言ってあきらめて帰っていく。別に、今にも怒り出しそうな不機嫌な顔で受け答えをしているわけではなく、普通かどちらかといえば愛想よく受け答えをしているつもりである。こちらとしては、半分、子どもの気持ちが分かっているのに、問い返しをすることは意地悪かなと思いながら、「よしよし、頑張って交渉してこい」という思いで、子ども達の出方を待っている。その交渉役の子が自分の席に帰っていくと、私とその子のやりとりを見守っていた周囲の子たちの間に、「やっぱり、だめだったか」というあきらめの空気が漂う。すると、どうしてもグループで活動したいと思う二番手が出てきて、交渉を引き継ぐ。

「先生。どうしても僕たち好きな人どうしでやりたいんですけど、いいですか?」

「ふんふん。じゃあ、どうして好きな人とやりたいの?」

「その方が、楽しいし……」

「楽しいだけなんですか。」

「分からないとき、すぐ友達に聞けるから。」

「なるほど、友達と一緒の方が、すぐに聞けて活動しやすいからですね。いいと思います。どうぞ。」

しかし、担任としての配慮から、次の言葉を足しておく。

「一人でやりたい人は別にして、一人ぼっちが出ないよう気をつけてくださいね。」

こうして、クラスの中にグループが出来上がり、それぞれで活動を進める。私のクラスは、それ以降、図工の時間は始業前にグループが出来上がっており、活動のはじめに、本時のめあてや活動内容、そして活動時間の目安を告げるだけですむようになっている。あとは、子ども達が活動している間をにこにこしながら、「この色遣いいいねえ」「いい形だね」などとほめていればすむ。子ども達の会話も、

「ねえ、○○ちゃん。その色いいね。どうやってつくったの。」

「その塗り方って、どうやってやるの。」

「ここのとこさぁ、うまくくっつかないんだけど、どうしたらいいかな。」

というように、お互いに教え合って、技能習得や向上が成されているようである。中には、どう見たってこれは真似しただろう、という構図がそっくりな作品も出てくるが、日常の創作活動であり、また模倣も立派な学習であるという考えから、特に問題視はしてない。なぜなら、同じ芸術分野である書道においては、有名な書家の字を模倣することで、その字体を練習し習得することがあるからである。たとえ、それが模倣であっても、その子は描けないから真似したのであろうし、またその構図等がいいと思ったから真似したのであろうから、模倣をすることで、なんらかの技能習得、向上に役立っていると個人的に考えている。

さて、ここまでは、本にあったものと似た内容であると思うが、この学び合いの場面が一変する場面が毎年一度必ず起こる。それは2学期が始まって、運動会の練習がさかんな頃である。○○県では、秋に郡・市のそして県の芸術祭が毎年行われている。各小・中学校は、各教育研究会バックアップのもと作品展が行われるため、作品を出品しなければならない。当然、それは全校的な取り組みであり、この時期は学校中が絵画作品一色になる。すると自ずと学年間で同じテーマを扱った結果として、廊下に並んだ作品から各教師の指導力が見られてしまう。特に年配のベテランの先生のコメントは、辛口である。展覧会に出すに耐えうる作品を出品しなければならない、指導したあとが見えなければならないという二大要素に迫られて、私も含めて先生方がやってしまうことが、アドバイスと称した指導である。「ここは、こんなふうに描いて。」「ここの色はもっとこう明るくして。」「色を混ぜるのは最高3色までです。」などである。子ども達の配置は、いつも通りグループだが、今までにこにこと見守っていた担任が、急に厳しく口をはさむようになるのである。今、こうして現場を離れて、客観的に思い返すと、ずいぶんとんでもないことをしていたと自省するばかりである。このアドバイスという名のもとの指導は、その後、教師の首をしめることになる。これまで、「あぁ、いいねえ」「いいよ」「いい、すごくいい」などと言っていた人間が、手のひらを返したように子どもの作品に注文をつけ、手を加えることをしていった結果、クラスに長蛇の列ができあがる。教師の前に、ずらりと自分の描きかけの作品をもった子ども達が並び、一つ一つ聞きにくるのである。教師は、固定の場所に居座ることを求められ、その前にはまるでアイドルのサイン会に並ぶファンクラブ会員の行列か、それとも人気ラーメン屋の前の行列かとでもいうような、長い列ができあがる。当然、教師は、その並んでいる一人一人に対応することしかできず、クラス全体の把握ができなくなる。そして、子ども達は、順番待ちの時間ばかりかかってしまい、作品づくりにかける時間がなくなる。最後には、クラス全体で作品の完成が遅れ、日課変更をしてまで展覧会に出品する作品づくりをしなければならないという悪循環を生み出す。それまで、友達どうしで教え合っていた姿はめっきり減り、どんな些細なことでも、いちいち確認してからでないと作品がつくれないという、手間のかかる状態になる。このような状況に陥ることが分かっていながら、先に挙げた二大要素のために、どうしてもアドバイスという名の指導をしてしまうのである。』

追伸 似たような事例は、最近の本で、総合学習の事例を紹介しましたよね。