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2005-08-23

[]ありがとう! 10:46 ありがとう! - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ありがとう! - 西川純のメモ ありがとう! - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先週の「学び合いフォーラム」は内容的に大成功だと思います。感激しました。私も数多くの研修会に参加しましたが、今回の会は我々らしいオリジナリティがあったと思います。第一に、公開ゼミという形式です。生の子どもの姿をもとに、徹底的に語り合うという形式は、意外に、研修会でやられていなかったようです。また、徹底的に学術に裏打ちされた実践的な研究の発表は、学術と実践の両立を願っている我々の特徴が出ているものだと思います。我々の間ではごくごく普通にやっています。しかし、当たり前すぎて見逃していましたが、このような形式はとても大事なことだと思います。

 終わってから、色々なアイディアを頂きました。例えば、「30歳限定のお悩み相談コーナー」というのもありました。面白い企画です。初対面の人が集まる研究会で、若い人が質問したり、意見を言ったりするのは大変です。そのような人の悩みを聞くことによって、我々も学ぶことが多いと確信しています。その他、ここでは書ききれないほどのアイディアを頂きました。そのようなアイディアを頂ける人たちの知恵を、今回は生かし切れなかったことを残念に思います。同時に、来年はそれらの知恵を結集し、学び合いによって会を企画・運営したいと思いました。このような会に出会えたことを、深く、深く感謝します。

 会の声かけと調整をして頂いたKさんありがとう。

 Kさんのお知り合いで、初対面でしたO木さん、K田さん、M野さん、ありがとうございます。当日は、ちゃんとご挨拶できず、すみません。何よりもネットワークが広がっていくことが嬉しく思いました。

 運営のために、遠方から来てくれたヒデコバさん、Yzさん、Iさん、H、グレートOさん、M膳さん、ありがとう。懐かしい顔と、相変わらずのパワーを嬉しく思います。皆さんの進んだ道、また、進もうとする道に間違いはありません!

 ずっと裏方で頑張ってくれたM婦人、ありがとう。当日、受付の横でいっぱい伺ったお話、参考になりました。

 準備で頑張ってくれたのですが、セミナーには諸般の事情で参加できなかったYdさん、Mさんありがとう。次は日程調整したいと思います。

 新潟市に住んでいるKさん×2、前日の準備もご苦労様でした。また、現メンバーとの調整役として頑張ってくれたObさんありがとう。気を遣う役目でしたね。

 M2のIさん、Gさん、Oさん、有り難うございます。参観者に学術と実践の融合のあり方を伝えられたと思います。

 M1のKさん、Tさん、Hさんありがとう。来年は、一層期待していますよ。

 学部4年のO、ありがとう。懇親会までつきあってくれて有り難う。色々からかったけど、君は大きく成長しているよ。

 学部3年のT×2、Sちゃん、ありがとう。若い君たちがいるということの効果は、YmさんやHの研究で分かっているよね。

 そして、参観者の皆さん、ありがとうございます。殆ど組織的な宣伝をしていないのにもかかわらず、この会の存在を見出し、参加して頂き感謝します。

 そして、そして、最後に互いにありがとう。おそらく、皆さんは互いにありがとうと言いたい気持ちだと思います。我々は子どもたちの学び合いを研究しています。しかし、学び合いが有効であり、そして必要としているのは教師も同じです。今回の会では、参加した全員が学び合う機会を持てたと思います。

 さて、みなさん、次に向かって頑張りましょう!すご~~く、期待しています!

[]天啓 10:47 天啓 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天啓 - 西川純のメモ 天啓 - 西川純のメモ のブックマークコメント

  学者人生を20年やっていますが、いわゆるひらめきというのは、そうそうありません。しかし、今日は天啓がありました。

 私にはなかなか分からなかった謎がいくつかあります。その一つに、「なぜ、我々の学び合いが学校教育で主流にならないのか?」という問題があります。だって、我々の学び合いをやれば、成績は上がる、子どもたちの人間関係は良くなく、そして、教師は気が楽になる、と良いことずくめです(ちなみに、もう一つ、簡単というのもあります)。本当にいいものは世に広まるはずです。ところが現状はそうでもありません。もちろん、我々以前にも多くの心ある教師は気づいており、実践していました。でも、それが主流にならず、「指導無きところに、成長無し」という方は少なくありません。何故なんでしょうか?

 その手がかりはいくつもあります。以前のメモ「未来」に書いたように、アルビン・トフラーの「第三の波」によれば、従前の世界は、「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」という共通の性質があります。そして、新たな時代は、それの対極である、「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」であるとしています。現行の教師主導を根付かしているものの最大の要因が、学習の最大の手段が、高価で有限な教師であるというモデルに則っているからだと思います。たしかに、印刷物が高価で、それ以外の情報取得の方法が口伝である戦前においては、たしかにそうかもしれません。しかし、印刷物が安価になれば、教師に頼らずとも良質の参考書があります。少なくとも、教師と子どもとの相互作用が限定された現行の指導方法であるならば、下手な教師が教えるより参考書の方が有効です。さらに、テレビ等の情報は、下手な書籍よりも金をかけた情報を無料で提供してくれます。さらに、インターネットの普及によって、多様な情報を簡単に取得することが出来ます。つまり、現在の「指導無きところに、成長無し」は、前時代の状況に根ざすものです。

 さらに、最近集中的に読んだリッカートの経営学も示唆に富んでいます。そこに書かれている、良き管理者として書かれているものは、我々が述べているものと全く一致しています。ところが、必ずしも世の管理者は、「指導無きところに、成長無し」ということを言っていいます。リッカートはそれを嘆いています。そして、リッカートは、何故、そのように間違った管理がなされている理由として、ちゃんとした評価がなされていないことを指摘しています。教育も全くそうです。例えば、「指導無きところに、成長無し」ということも、「教科の力が良いほど、良い教師」とうような素人的には受け入れやすい仮説も、それが正しいということを証明する実証的な研究はありません。しかし、経営学のレベルでは、それは嘘であるということを証明する実証的な研究はあります。

 しかし、私には今ひとつ腑に落ちないところがありました。「指導無きところに、成長無し」という考え方が、19世紀の世界で必要とされた理由もトフラーによって分かります。そして、その状態が変わっているのに、それが正されない理由もリッカーの考えからも分かります。しかし、今まで私が腑に落ちなかったのは、19世紀以前においても、「指導無きところに、成長無し」と いう教育観があった点です。

 もしそれが分かれば、「指導無きところに、成長無し」が前時代の「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」によって学校教育というシステムが作られ、正しい検証がなされなかったため、今に至ってもそれが続いているということが分かります。

 本日、夕食の後の息子の歯磨きをしながら分かりました。私は「指導無きところに、成長無し」という方針で、息子を教えています。おそらく、親が子を指導する場合は、それは正しいのかもしれません(あくまでもごく初期ですが)。以前のメモでサルの本能のことを書いたように、我々の中にある本当は基本的にサルの本能に近いものがあります。そして、サルの教育は親から子を基本としています。そこにいたって疑問が氷解しました。

 つまり、我々ホモサピエンスは群れの中で学び合う能力をDNAの中で刻みつけると同時に、その初期段階は「指導無きところに、成長無し」という親子関係の教育もDNAに刻みつけていたのだと思います。それが産業革命以後の「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」によって、システム化されました。ところが、次の時代になって「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」になったのにもかかわらず、正統な実証的なデータが無いため、そのままの状態が続いています。

 そして、そのベースになっている誤解は、教師が自分の子どもを教えると同じように、自分の教え子を教えるべきと考えている点です。しかし、親と教師は別です。親は教師にはなれません。考えて下さい。自分の子どもを含むクラスの担任になれるでしょうか?逆に、教師は親になれません。考えてください。数十人の子どもに対して、自らの子どもと同じように出来るでしょうか?ナンセンスです。

 従って、我々は三つのことを主張すべきです。第一は、「現代社会において教師が最善の教え手はない。」ことを、実証的なデータで示すべきです。第二は、「教師は親ではないし、親は教師ではない。そして、別々であることに倫理的な問題はない。いや、両者を一致させようとすることが問題だ」ことです。本日は、すっきりしました。

[]天啓(その2) 10:47 天啓(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天啓(その2) - 西川純のメモ 天啓(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 分かるときには、本当に分かるものです。私にとって、ずっと分からなかった疑問は「学び合いを目標とすべきか?」です。おそらく、我々の学び合いが理解できない人には、全く禅問答のように意味がないように思われるかもしれません。しかし、我々にとっては根本問題です。というのは、我々の考えの基本は、子どもは有能であるという確信があります。「学び合い」は手段であって、目標ではありません。目標は、一人一人の自己実現です。一人一人が自己実現を願うならば、子どもたちが選択する方法が学び合いなんです。だから、「学び合いを目標とすべきか?」という考えは 、「否」が我々的な回答です。ところが、実際のクラスにおいて、学び合いを目標としたくなります。そして、教師の直感で、それが正と感じる場面があります。そこが悩みの種です。

 本日分かりました。私は、「学び合い」に「仲良くなる」、「学び合う」、「メンバー全体が高い達成度を実現する」の三つをごっちゃに願っていました。しかし、管理者としての教師が願うことは「メンバー全体が高い達成度を実現する」なんです。それを願うことは間違いはありません。仲良くならなくても、学び合わなくても、いいんです。求めることは「メンバー全体が高い達成度を実現する」です。その集団に適正ならば(そして、圧倒的大多数の場合は)、子どもたちは大部分(全部とはいいません)は仲良くなるし、学び合います。そして、かぎりなく全員が高い達成度を実現します。

 私は今まで個人個人に対して高い達成度を求めとめるべきでした。そして、学び合うことを強制するべきではないと考えていました。しかし、今は「メンバー全員」に対して高い達成度を求め、学び合うことを強制するべきではないと考えています。ポイントは管理者としてメンバー全員の成果を求めることは正当だと考えている点です。

 分かってみれば、あたりまえ。そして、その多くは以前から言っていたこと。でも、その腑の落ち方、確信の度合いに大きな違いがあります。おそらく、我々の考え方が分からない人にとっては、無意味な議論なんでしょうね。でも、これが腑に落ちるか否か、確信するか否かが、授業の姿に現れることを実証的なデータで示しているのが我々です。

[]感度 10:47 感度 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 感度 - 西川純のメモ 感度 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 毎日、息子の添い寝をします。その部屋には空気清浄機があります。空気がキレイなときはランプが緑色です。空気が汚れたときに赤くなります。本日、息子の添い寝をしているとき、オナラをしました。そのとたんに空気清浄機のランプが赤くなりました。馬鹿馬鹿しくて寝ている息子の脇で必死に笑いを押し殺しました。

 息子と寝ている部屋は7畳半の部屋です。可能性は二つです。7畳半の部屋にオナラ一発で反応するほど敏感な空気清浄機なのか、空気清浄機を反応させるほどのオナラ一発なのかです。私は現代の機械の素晴らしさを信じるが故に、前者を採用したいと思います。