■ [大事なこと]教師が教える方がよい理由
最近の「万能の処方箋」に書いた方とのやりとりの後日談です。その後も、「学び合い」に対する様々な疑問を大量に書かれたメールを受けました。それに対して、個々に対応することも可能ですが、そうすると議論の焦点がぼやけてしまいそうです。そこで、単純な疑問を私はその方に出しました。それは、「教師が教える方が絶対によい理由」を書いてください、というものです。以下が、その方のメールと、私の返信の部分です。私の返信部分をイタリックにしました。
メール、ありがとうございました。 教師が教える方が絶対良い理由ですね。
○課題探索と解決の方法を教え、教師と生徒が一緒になって教材に取り組むことの繰り返しを通して、やがては小説なら小説、説明文なら説明文の「読むための理論・着目すべき表現法など」を生徒の中に内在化していくことで、やがて生徒自身がほとんど教師の手を借りずに討論や意見交換などの話し合い・学び合いをしていけるようになる。
なぜ、「読むための理論・着目すべき表現法など」を生徒の中に内在化するのに教師が必要なのですか?
なぜ、教師の手を借りなければ、討論や意見交換が出来ないのですか?
私は教えるべきことはあるとは思います。
でも、それは書いて渡せばいいことです。
教師が教えていると称していることで、書いて渡す以上のものってあります?
もちろん、分からない子どもはいるでしょう。
でも、分かる子どもは必ずいます。
その子どもを通して学びは成立するとは考えられませんか?
○大村はまによると、「今の教師は教えなさすぎる」という。「作文をこれこれの題材で書いて。」と指示して自分は教卓で学級費の計算などをしている。これでは生 徒は何も学ばず、作文嫌いが増えるばかりである。書き出せないで苦しんでいる子がいたら、教師が行って、初めの一行を書いてやればよい。それこそが専門職とし ての教師の最低限の役割ではないか?…読む聞く書く話す、全てに於いて、一人一人の実態を把握し、それに沿った教材を用意し、その子に責任を持たせることで、 生徒は自分の課題は自分だけが解いている、と実感できるようになる…などの主張がある。勿論そうなれば教師は異常に多くの教材研究(と言うよりも学習者研究) に時間を費やされ、大変なことになる。しかし、その言っている内容は正しいと思われる。
その「初めの一行」を書けるのは、何故、教師だけなのでしょうか?
子どもにそれが出来ない根拠はありますか?
○現実の生徒を見て。生徒は実は生活の中で色々なことを自然に学び合っている。それは必要だから、である。しかし、教科書の内容が彼らにとって「必要なもの」と は認識され得ない。「学び」=「教科の学び」としても捉えよう、というのは卓見であるが、実際の所、「教科での学び合い」を嫌がる生徒がほとんである。受験というシステムの問題で、共同する学び、という概念が信じられないのであろう。授業は先生が「怠けがちな私たちに」無理矢理にでも教えてくれた方がずっといい。下手に話し合いだの学び合いだのやるなら少しでも先生がうまく教えてくれ。…これが現実。
それは目標が悪いだけです。
「学び合う教室」の第1章はお読みになったでしょうか?
何のために学ぶのか、それを語れなければ、子どもが学ばないのは当たり前です。
学ぶ意味を理解できなければ、無理矢理教えて、何が出来るのでしょうか?
そんなことをするのではなく、何故学ぶのかをちゃんと語るのが教師の務めだと我々は考えています。
○上記の現実に加えて、学び合いは「教科書を終わらせないとクレームが来る」という現実によって阻まれる。教師が進めていけば或る程度見通しを持って計画的に終わらせることができる。
ちゃんと学ぶ意義が分かれば、
子どもたちに「これこれのことを、これこれまでにやってね」と言えば、ちゃんとやってくれます。
それも、教師が思うより早く、そして質高く。
何故かと言えば、やる意味を分かっているからです。
○中学では塾に行く子がかなりの割合でいて、授業の内容は学習済みである。かたや部活だけに燃えてまったく学習しない生徒もいる。そんな中で学び合いをさせるとなると、一方的な形になり、小先生の生産につながってしまう。教師がある程度、塾では教えない教科の本質的なことを教授してやれば、双方の生徒にとって幸せ。
それが教師だけしかできないという根拠はどこにあります?
○私語の問題。教師がメインで授業を進めれば或る程度私語は減らすことができる。 しかし、学び合いでは私語は当然現れる。その中にかなりの割合で教科内容にかかわるものがあったとしても、やはり生徒は安きに流れる。「自分の認知の枠組みに沿って教えてくれそうな子」を探すよりも「仲良しの子」の所に行く。そうなれば、授業が休み時間になってしまう。データの中では、課題に関する会話が生じるとあったが自分の生徒達を見ていて、それは信じがたい。人は興味あることを話し合いたい欲求の方が強いのであり、教科に興味ある子は残念ながら少ない。ならば、教師主導の中で面白い興味のわく課題を設定してやり、たまに話し合いをる程度にとどめた方が現実的対応である。
教師がメインにやれば私語はなくなるでしょう。
でも、その時の子どもの頭の中は空っぽで、聞いているふりをしているだけです。
生徒が易きに流れるのは、目標が悪いだけのことです。
学ぶ意味を分かりさえすれば、彼らは凄いことをしますよ。
●…色々書き連ねましたが、しかし先生の御著書の中でも提示されているとおり、学び合いも、或る程度の約束と課題設定の工夫と評価、自己モニター化などがうまく機能すれば充分可能なのではないか?と、書いているうちに思えるようになってきてしまいました。「現実」を過剰に重く捉えて、何でも教師が教え尽くす等ということは理論上不可能であり、○年前の○○勤務の折り、大村はまの如く、「教授の神様になるぞ!」と毎晩12時頃まで学校で他の雑務も多いのに踏ん張りすぎたあげく、・・・・(以下、個人特定される可能性があるので略します。概略を言えば、頑張りすぎたため体を壊してしまい、療養生活を強いられました。復帰後に学び合いを行ったら、「それでなくても荒れているのにあんなにうるさくさせて隣の教室にどれだけ迷惑をかけていると思っているのか!」と管理職に叱責されたそうです。そのため、身分確保のために、とりあえずは旧来の授業をせざるを得ないという悩みを書かれていました。)
な~んだ、分かっているじゃないですか。
「それでなくても荒れているのにあんなにうるさくさせて隣の教室にどれだけ迷惑をかけていると思っているのか!」と怒られたら、
子どもに、「すまんな~、俺も宮仕えの身なんだ。隣に迷惑をかけない程度でやってくれないか。」と頼むんです。
そして、「それが出来ないと、前通りの黙って俺の黒板に板書しているのを写す授業に戻さなければならない」と言うんです。
でも、身分確保は大事です。
そのために必要であれば、そのようにされたらいいですよ。
でも、本にも書きましたが、学び合う時間を5分程度の時間を与えることは可能でしょう。
それを5分、10分に持って行けばいいと思います。
そして、目標の設定のポイントは、「おまえのため」ではなく「みんなのため」であり、
その「みんなのため」が「自分のためである」と納得させるか否かです。
それを「学び合う教室」の第1章に書きました。
今までにも、何人もの方に同様の質問をしたことがあります。それらの方々は、学び合いに対して魅力を感じつつも、何故かしっくり出来ないでいる方々です。もちろん、我々の研究室の本は読破されている方です。そのような方に、「教師が教えた方がいい理由を書いてください」という質問をすると、いずれの方も、書いている途中に自分が囚われていることに気づかれます。だって、教師が教えた方がいい理由なんて、無いんですから。教師がすべきは教えることではなく、学ぶ意味を納得させることなんです!