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2006-05-08

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 今年の夏休みも我々の仲間で、我々の考えを伝える会を新潟市で行うべく企画しています。現在、そのために我々の仲間が準備をしているところです。その会を主催するのは何かということに関して、従来と違う形が必要ではないか、という意見が出ました。私もそう思います。そこで、以前、考えたことを基に「子どもに学ぶ教師の会」を提案しているところです。以下が趣意書(暫定版)です。是非、ご意見を頂きたく願います。

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 我々教師は子どもたちに対して、「このように勉強しなさい」と自信たっぷりに指示します。しかし、子どもたちに対して、それを指示できるほど「勉強すること」が分かっているのでしょうか?

 別の問いかけで考えてみましょう。我々教師が、子どもに「このように勉強しなさい」と言えるほど「勉強」が分かったのはいつでしょうか?中学生の頃でしょうか?つまり中学生ぐらいになれば「勉強すること」が分かるのでしょうか。そうだったら、中学生は我々教師と同等に「勉強」が分かっているのですから、我々教師は中学生に偉そうに指示できません。高校生の頃でしょうか?そうだったら高校生はもう十分に勉強できるはずなのですから、我々教師が高校生に偉そうに指示できません。では大学生の頃でしょうか?それだったら小学生中学生高校生に対して偉そうに指示できます。しかし、大学でそんなことを学んだのでしょうか?大学講義の中の「○○原理」、「○○概論」を学んだから、「勉強が分かった」のでしょうか?大学講義はそのような講義内容だったでしょうか?多くの教師は「否」と言うのではないでしょうか?多くの教師は、今の自分にしてくれたのは子どもであると感じていると思います。教師が「これはいい勉強」と思いこんでも、子どもは「それは違うよ」と教えてくれます。なによりも、子どもが聞いてくれません。聞いてくれたとしても、目が死んでおり、聞いているふりをする子どもの姿で、ロボットのような子どもの姿で、自分が誤っていることを教えてくれます。さらに、どんな管理職より厳しい鉄槌を下します。もちろん、子どもの姿を見ていなければ気づかないかもしれません。しかし、子どもが聞いたふりをして、ロボットのようになっても、それを喜んでいるとしたら、それは管理職の鉄槌よりも、恐ろしいことではないでしょうか?

  一方、たとえ自分が意識しなくても、正しいことをすれば、子どもは「それ凄く、いいよ」と教えてくれます。生き生きした子どもの姿、自分の予想を遙かに超えた姿で、教育の素晴らしさを教えてくれます。 子ども達は、どんな管理職より素晴らしいご褒美をくれます。我々教師はそのような教師人生の中で成長します。そして、教師の教師は「子どものたちの姿」であると自覚します。

 目標の設定も同じです。何を学ぶべきか、その社会が定めるものです。しかし、それを子どもたちに納得させ、共感させるのは教師の仕事です。そのためには、教師自らが「何を学ぶべきか」をしっかりと理解しなければなりません。「何を学ぶべきか」は、教育に関する諸法、また、指導要領に示されています。しかし、それを子どもたちに説明しようとするとき、その意味を理解することが難しいことに気づきます。では、何をもとに理解したらいいでしょうか?それは「勉強」の仕方、即ち、教え方を学ぶように、生の子どもたちに語り、それに対する「子どもたちの姿」から学ぶしかありません。

 そのため、我々は出来るだけ子どもたちの姿を謙虚に見たいと願います。「出来るだけ」は、置かれた環境によって様々です。しかし、教卓よりは子どもたちのすぐ脇で見たいと願います。アンケート用紙の選択肢の○よりは、子どもたちの文章、さらには子どもたちの生の声を聞きたいと願います。一人の子どもの声より、二人、三人、さらに十人、二十人の声を聞きたいと願います。 また、一回ではなく、二回、三回、いや、ずっと継続的に声を聞きたいと願います。

 その子どもたちの姿によって、我々は自信を持って何を学ぶべきかを語れる、また、どのように学ぶべきかを語れる教師に成長したいと願います。しかし、一人の教師が出来ることは限られています。一人の教師が経験できる「子どもたちの姿」も限られています。思い出してください。自分が「子どもたちの姿」を通して学ぼうとして、挫折したとき。いや、「子どもたちの姿」を見ずに授業をやっていたとき。その時、自分を支えてくれたのは何でしょうか?それは「人」であるはずです。そして、その人はどんな人であったでしょうか?それは歴史に名を残すような教師ではなく、普通の教師かもしれません。しかし、絶対に子どもが悪いと否定はせず、日々の実践での子どもたちの姿を通して喜んでいる教師ではなかったでしょうか。そのような教師によって、我々は挫折を乗り越え、教師としての喜びを見いだしています。しかし、我々が助けられた、その教師も、実は、未熟な自分が喜ぶことによって、教師としての確信を得ていたはずです。

 我々は決してスーパーマン教師ではないですし、一生かかってもスーパーマン教師にはなれないかもしれません。でも、それでいいじゃないですか!普通の教師、でも、「子どもたちの姿を通して学ぼうとする教師」が集い、それらの教師が見た子どもたちの姿を共有することによって、一人のスーパーマン教師より多くの喜びを教師人生で得られる教師に成長出来ます!その喜びを、多くの年長の教師、若い教師、様々な教師と、ともに感じ、誇りある教師人生を実現しませんか?

 一人の子どもは、時に、無力で愚かかもしれません。しかし、子どもたちは強力で賢明です。何故なら、彼らにとっての学校の時間は、人生の重大事です。つまり、人ごとではなく、自分の人生を賭けた人間が集っているのですから 強力にもなり、賢明にもなります。同じように、一人の教師は、時に、無力で愚かかもしれません。しかし、教師たちは強力で賢明です。 なぜなら、我々は教師という職を一生の職と選び、それによって誇り有る人生を実現しようとしているからです。つまり、人ごとではなく、自分の人生を賭けた人間が集っているのですから 強力にもなり、賢明にもなります。その教師たちが「子どもたちの姿」を基礎におくならば、誤り無く成長できます。我々は多くの教師に提案します。子どもたちの姿によって成長しませんか?

 我々は同志を求めています。