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2006-06-23

[]自らを振り返る 09:40 自らを振り返る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自らを振り返る - 西川純のメモ 自らを振り返る - 西川純のメモ のブックマークコメント


 Kanさんが実践研究から帰ってきました。結果の概要の報告を受けました。簡単に言えば、「採用3、4年の教師は、2、3回ぐらいで学び合いの授業が出来るようになる」というものです。理屈の上では、私も納得できます。だって、学び合いの授業をするために必要な特別なものはありません。発想の転換をするだけのことです。だから、2、3回どころか、1回目で出来るようになってもおかしくありません。と、分かっている私自身もビックリです。ビックリしている私に向かって、「だって先生も言っていることでしょ」とニコニコと語るKanさんの顔を見ながら、嬉しくなります。だって、大学教師をやって何よりも面白いのは、自分の愚かさを指摘され、それを乗り越える知恵を授けてもらうことなんですから。これがあるから、「一銭」も給料に響かない院生指導・学部生指導をやっています。それにしても、百も承知のことをビックリする理由はなぜかと言えば、それは、学び合いに惹かれつつも、それが出来ない先生が少なくないことを知っているからです。Kanさんの話を聞きながら、何故かな~、と考えました。すでに深夜の12時をすぎ、日付は変わりました。そのころまでの時間、自らを振り返って理解できるような気がします。

 私の研究室運営は、学び合い、そのものです。ところが、授業は旧来の授業そのものです。練りに煉った教材、計画された話術によって面白くて、ためになる授業をします。学生さんは私の話のジェットコースターに乗せられ、右に左、上に下、そして気づけば授業時間は終わり、です。大学講義が、十数回の「講演」によって構成されています。我々の考え方から言えば、最悪の授業です。でも、それが分かっている私が、いまだにそれをしているのは何故か、考えました。理由は多くを望んでいないからです。

 20年以上教師をやっていれば、自家薬籠中の教材や話題がだいぶたまります。それらは、頭の中にたたき込んであり、また、そのための教材は整理されています。殆ど何の苦労もいらずに1時間語れます。それが、山ほどあります。それをやれば、お客様(つまり学生さん)は満足してくれます。「楽」です。ところが、研究室運営では、それらは微塵もありません。教材を用意しません。話術もつかいません。ごくごく普通常識的なことを語ります。いや、最初以外は語ることさえ殆どしません。学生さんが一生懸命議論している脇で漫画を見ていたり、熟睡しています。いや、脇でいることさえいません。その代わり、何が大事か問いことに関しては、暑苦しく語ります。本当に、説教じじーになります。講義の私と、研究指導の私は全く別人です。

 講義の時は、学生さんに求めるのは私のレベルに近づくことです。私のレベルに近づけるなら、練りに煉った教材、計画された話術で十分です。それらを駆使すれば、限りなく私のレベルに近づけることが出来ます。ところが、練りに煉った教材、計画した話術では、私のレベルに近づけることは出来ても、越えることは出来ません。だって、私のレベルに近づけるというのは、別な言い方をすれば、粗悪な私のコピーを作ることなのですから。粗悪なコピーが、原本を越えることは出来るはずありません。ところが私が研究室メンバーに求めるのは、私を越えた存在になることです。それによって私は学びたいと願っているからです。そのためには、一人一人が、私以上に頭と時間を使ってもらわなければなりません。それを全員に求めるには、学び合いしか方法はありません。

 学び合いを理解し、それでも学び合いを選択しない部分があったら、それは望むものが低いことを意味していると思います。「教師が教える方が良い部分がある」というのはありません。だって、私は十年ほど「教師が教える方がよい部分があるのか?」と考えていますが、見いだすことが出来ません。多くの人が言う「教師が教える方がよい部分」も、ごくごく単純な常識と、小学生でも分かる算数で論破できる自信があります。結局、子どもが分からなくてもしょうがないと認めてくれる環境にあるか、十歩譲っても、子どもが自分程度のレベルに達すれば賞賛される環境にいるのだと思います(つまり、大学を含めて大多数の公立学校)。そして、そのレベルのことだったら、今までの蓄積で、何も準備がいらずに教室に 向かえる教師が、学び合いを理解しているのに、学び合いを選択しないのだと思います。私自身はそうです。

 そう考えると、学び合いを理解することは、Kanさんのデータが実証するようにとてつもなく簡単であっても、その基本となっている学習者観、授業観、学校観を一貫して維持するには、高い、とてつもなく高い志が必要なのだと思います。

 Kanさんの報告を聞き、自宅に帰ってから長時間、自分を内省した結果は上記の通りです。