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2006-07-18

[]善人なおもて 09:15 善人なおもて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 善人なおもて - 西川純のメモ 善人なおもて - 西川純のメモ のブックマークコメント


 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」これは歎異抄の最も有名な言葉です。苦労すれば、一生懸命すれば報われるという単純な考えからすれば、途方もない考え方です。でも、仏陀が苦行の修行にあけくれ、それでも救われないことを悟ったことに対応します。結局、凡夫の修行なんてたかがしれているんです。善人は凡夫の修行が仏の悟りニアリーイコールと考えています。ところが、実際は天と地ほどの違いがあります。仏の悟りが一億だとして、善人と悪人の違いは百と一の違いなんです(本当は、もっと凄い違いです)。たしかに、百と一は違います。でも一億の前ではちっぽけなもんです。善人が悟ったら一億百です。悪人は一億一です。どれほどの違いがあるでしょう。ところが、百と一の違いから、百を足せば一億になると誤解する善人。一方、百と一の違いから、一をいくら足しても一億にならないと気づく悪人。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、そんな言葉だと思います。

 では、善人と悪人の違いはあるのでしょうか?難しい問題です。

 弥勒菩薩は 地上のあらゆる人を 救うという願をたて 五十六億七千万年の後 最後の一人を救い 願を達成し 佛におなりになるのだそうです。仏典には何も書いてありませんが、弥勒菩薩は苦行をされた方だと思います。

 我々の学び合いを習得するには1週間で出来ます。では、それまでの苦労は何だったんでしょう。きっと子どもに対する授業に関して言えば、それまで教材・話術で苦労した先生と、その能力を習得しなかった先生には違いはないかもしれません。でも、苦労した先生は、苦労した先生の気持ちが分かります。きっと、苦労した先生に分かってもらうためにはどうしたらいいかを、真面目に考えられると思います。

 「念仏を唱え阿弥陀に全てを任せた人々を救う」と誓いを立てた阿弥陀仏は「悪人」を救う方でしょう。でも、弥勒菩薩は、最後まで百と一の違いに拘る「善人」を救う方なのだと思います。我々の考え方は運動となれば、何も考えず、何となく救われる人が多いと思います。でも、これは大事です。だって、何となくであってもどうであっても、その人のクラス子どもは救われます。でも、そうでない教師があり、そして、その教師が教えている子どもがいます。その人を救うには、同じように苦労した人が必要なのかもしれません。

追伸1 Kineさんのブログに対する私の応えです。

追伸2 何度も言いますが、私の宗教葬式仏教の域を超えません。ただ、文学・知識としての各種の宗教には惹かれるものは多く、学ぶものは多いです。私の大好きな亀井勝一郎も、結局、帰依しきれなかった知識人です。彼も帰依することを願っていましたが、結局、帰依しきれませんでした。でも、それ故、分析を出来ました。帰依した人は分析をせず、ただ信じるだけですから。