お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2006-08-30

[]姑息 08:35 姑息 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 姑息 - 西川純のメモ 姑息 - 西川純のメモ のブックマークコメント


 昨日は埼玉県先生が、我々の研究室に学びに来ました。色々と相談に乗りました。我々の実践ビデオを見て、理解して頂けましたが、自分自身が確実に出来るか否かに関して不安を感じていました。まあそうでしょう。今までの教育観と180度違う考え方なのですから。そこで、より確実にするため、子どもたちに我々の仲間の実践ビデオを見せたら、と考えました。つまり、学び合っている姿を子どもたちが見れば、よりスムーズ移行できると考えたからです。それを提案すると、現職院生Kanさんは、思いっきり軽蔑したような目で、「そんな姑息なことをしなくても子ども学び合います」と言われました。大笑いして、その案を引き下げました。

 前のメモにも書きましたが、我々の学び合い研究は10年弱の歴史があります。そして、毎年、驚異的な進歩を遂げています。ごく初期の段階では「自己モニター」という手法を開発しました。簡単に説明すれば、自分たちの会話の様子を自分たちで記録し、それを聞き直すという、全部で15分ぐらいの手法です。それまでのグループ学習の手法に比べれば、驚異的に単純な手法です。何故、そのような手法を考えついたかと言えば、子どもたちは学び合う能力をもっていると確信しているからです。しかし、今考えれば、「姑息」なことです。現在では、そんな手法は全くいらないことを我々は理解しています。そんなことをしなくても、学ぶ意味をちゃんと語ることが出来れば、子どもたちは誤り無く学び合うことが出来ます。

 本日も最悪の状況の学校でも学び合いは出来るか、という質問を受けました。実に率直なご意見だと思います。 参加して頂いた先生方の多くが感じたことを代表した質問を感じました。ところが、我々にとっては、そんなこと心配ないことは自明です。少なくとも、最悪の状況を、より良くする最善の方法であることに関しては、120%の確信があります。でも、これって伝えようがないんです。例えば、明日も一桁の計算が出来るだろうか?と問われたらどうでしょう?そりゃ、本当のところ は明日にならなければ分かりませんが、どう考えても出来るだろうと考えます。説明したとしても、煎じ詰めれば、そんなの簡単だと知っているからです。一度、学び合いを経験すれば、我々が何故、そんなに自信を持っているかが実感として分かるはずです。大抵の先生方が教えているクラスは最悪の状況ではないと思います。だから、心配するより、とにかくやってみることです。一度分かれば、我々の自信が何であるか分かるはずです。それを実感しているKanさんは、私の老婆心姑息に見えたのだと思います。

追伸 本日講演会の後に、帰りの電車に乗るために駅へ車で送って頂いた先生から、学び合において教師がやるべきことは何か?という質問を受けました。私は、説教と感激・感謝であると答えました。これこれしなさい、という方法のレベルのことを教師は語る必要はありません。しかし、何のために学ぶのか、というレベルのことはしつこく説教すべきです。そして、道に外れた行為が見られたとき、クラス全体(道に外れた行為をした子ではありません)に説教すべきです。この説教は、必要がある場合、何度でも語るべきです。そして、もう一つ必要なのは感激・感謝です。これは褒めるではありません。褒めるは、自分のレベルに達したことを、教師が上から語ることです。感激・感謝は、子どもが自分を乗り越えることをし、それによって自分が学べたことを感激・感謝することです。これは大事です。昨日は、Kanさんから「姑息」と言われたことを感激・感謝しました。

追伸2 上記に関わらず、ごく初期の本である「学び合う教室」あたりから、順を追って読むのが一番いいと思います。最近の本は、平均的な先生方の常識からぶっ飛んでいますから。順を追っていくと、現在の我々が何故あるかが分かります。今までの本の中で一番大事なところはどこかと聞かれれば、おそらく、それは「学び合う教室」の第1章と第6章だと思います。現在までの研究は、そこに私が書いたことの意味の深さを、私自身が再確認するものだとも言えます。最初に我々が定めた方向性は、今でも正しい。その正しい方向性を、何故、10年弱前に定められたのか奇跡に近いものがあるように思います。今読み返しても、「学び合う教室」に書いたものは、今でも正しいと確信しています。ただ、今の我々は、その本に書いたことの本当の意味が何であったかを再発見しています。