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2006-11-07

[]学び合う・学び合わせる 18:09 学び合う・学び合わせる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う・学び合わせる - 西川純のメモ 学び合う・学び合わせる - 西川純のメモ のブックマークコメント


 ある方から、以下のメールが来ました。非常に鋭い視点です。

 『先生の著書やメモを見ると、教師の持つ学習観の変化は「わからない→わかろうとする→わかる(同志)」の変化で捉えられている反面、学習者の変化は、もともとあるものが「出る←→出ない」の関係で捉えられている。それでいいのかなあ?ということです。

 先生の著書やメモを読むと、例えば研究生の皆さんは例えそれまでに先生の著書を読んでいたとしても、先生や先輩に触れることで、自身がそれまで持っていた学習観、授業観、学習者観、教師観などが大きく揺さぶられている様子が伺えます。例えば私がその場にいれば、戸惑い、悩み、もしかすると(提示されている確信と自分が持っている確信の衝突が起こり)先生に対し怒りを感じるかもしれません。でも、そのうちに自らが気付き、そして変わっていく。(先生言葉を借りると「お弟子さん→同志」への脱皮?)きっと先生はそんなお弟子さんをたくさん見てきたので、いつも自分を信じニコニコとしていられるのだろうと思います。そして先生のもとで「お弟子さん→同志」へと変貌をとげた方たちは、もう「わからない」に戻ることはない。だから難しくても、場が保障されていなくても、もがき、人的ネットワークを駆使して、自らの回りの場を変えていこうとする。そういうことも読み取れます。

 一方、子供たちの変化については、教師の持つ学習観と子供達の学習観の衝突があるとか、反発があったとか、そこに注目した記述が(あまり)強調されていません。(もしかするとそれはあたりまえすぎて省かれているのかもしれませんし、私が感じているだけで衝突なんてものがないのかもしれませんが)どちらかというと、それまでどれだけ場が保障されず学びあいが見えなかった子供たちでも、場が保障されれば(自身の学習観がゆさぶられることなく)すっと出てくる。そんな感じです。でも、それだと場が保障されなかったときにとても無力なような気がしていまいます。だから、学習者の変化を教師の変化と同じ視点で記述すれば、更に有力な姿が見えるのではないか、そんな気がしたわけです。』

 以下が私の「応え」です。

 先ず第一に、「教師の持つ学習観と子供達の学習観」が衝突したら絶対に学び合いは生じません。教師の考え方が変わらない限り、子どもは変われない、というか、正確に言えば表出しません。そして、学び合い際には、 上記のメールで心配されているような子どもの中で衝突は起こりません。それには理由があります。

 今度の本(11月下旬発行)には詳しく書きましたが、我々がDNAの中に組み込んでいるのは、「学び合う能力」であって、「学び合わせる能力」ではありません。もちろん、厳密に言えば、後者DNAに組み込まれているとは思いますが、前者に比べると圧倒的に弱い。人間の中に組み込まれているのは、肉親のような近しい小さい集団の中で、学び合う能力です。肉親以外のメンバーを自分の集団と認識するのは、学習によるものです。さらに、肉親以外のメンバーを学び合わせる能力も、学習によるものです。

 我々の学び合いで、まず最初に求められるのは、自分の近しいメンバーで学び合うことです(我々はメンバーの選択も自由にするのが基本ですから)。これには何の障害もなく発生します。なんとなれば我々の中に組み込まれているものですから。しかし、自分の近しいメンバーを、クラス集団であると認識させるときには軋轢が生じます。その際には、教師は「みんなで」という魔法言葉を、自身の学校観を背景として語らねばなりません。ところがこの過程は、連続的なので、それほど目立ちません。

 ところが、教師の場合は、自分の中に組み込まれていない「学び合わせる」ことを求められているんです。以前のメモに書いたように、情報が極めて高価で、そのため教師が情報を占有した時代に形成された「学び合わせる」方法を、今も引きずっているのが現状です。あたかも、フォークとナイフしか使ってなかった人に、箸を使わせるようなものです。フォークとナイフで食べられる人に、箸を習わせるのは困難です。

 繰り返しますが、子どもたちに学び合う際には、教師が学び合わせることを会得するような衝突・軋轢はありません。だから、本や論文に多くのページを費やしていないんです。そして、教師であっても、教師同士が学び合う際には、子どもたちが学び合う際と同様に衝突・軋轢はありません。衝突・軋轢があるのは、学び合わせることを会得する際に起こります。